音二題

朝のまだ目の覚めきらぬまどろみの中で、隣家の雨戸を開ける音を聞く。シヤツター式の上下に開閉するタイプのもので、蛇腹式に巻き上げるとバラバラと音がする。隣接する建売四軒は同じ業者が作つたために、拙宅も含め同じもので、自分で開け閉めすると近すぎるのかギシギシといふ金属音も加はつて余り良い音とも思へなかったのだが、枕辺で聞く其の音は意外に柔らかく耳に心地よい音だと思つた。
考へてみると、昔は隣近所の雨戸を開ける音から朝が始まつたやうな気がする。もちろん、シヤツター式のではなく、重く突つかかって擦れた音のする木の雨戸である。其れがいつの間にかサツシ窓と一体になつた軽金属の雨戸に変はり、其れは余り音の記憶は残さずに、シヤツター式の音へと移り変つた訳である。柳田國男ではないが、昭和の時代には当たり前に耳にしてゐた木の雨戸の音を、よほど古い家の並ぶ町でもない限りもはや聞くことができなくなつたのである。生活や住居の様式や素材の変化が、生活の中の音を消してしまつたのである。さうしたことが、人の生き方や感じ方に微妙な変化をもたらすことは十分に考へられることであらう。
木の雨戸の、一度ですんなりと開け閉めできることはまずなく、力加減を工夫しないとなかなか戸袋に収まらないあの感触、木の肌触り、ペンキの剥げ具合、軋む音・・・。それらは、何かのきつかけでもないと、失はれてしまつたこと自体に気づくこともない、かつてのわれわれの「日常生活」であり、日々わたしたちの五感を刺激してきたはずのものなのである。朝のぼんやりとした頭の中で雨戸の音を聞いて、図らずもわたしはいろいろなことを考へるに至つた。
あのバラバラといふシヤツター式の雨戸の音を聞いて育つた隣家の子どもが成長した先に、また住居様式の変化によつて此の音を懐かしく思ふやうな時が来るのであらうか。それともわたしたちの世代が、ある感覚の記憶のワンセットを次々と喪失させるやうな、生活を取り巻く環境やものの一大変革期に当たつたといふことなのであらうか。
耳慣れた古い音は失はれ、今までと違ふ音が氾濫し始める。歳をとればとるほど、新しい音は刺々しく耳障りなものに感じられるやうにも思ふ。わたしにとつては家電製品が発するピコピコ電子音も耳障りだが、携帯電話の着信音もおしなべて不快に感じられる。デジタルだからなのか何故かは知らないが、あれに比べればアルミの雨戸の音は自然音だから悪くないのであらう。
ところで携帯の呼び出し音で困るのは、着信音のボリウムを大きくしてゐる人に限つて、自分の電話が鳴つてゐることに全然気がつかないといふことである。先日も南師の会で、尋常ではない音が鳴つてゐるのに、本人が気がつかない。普通ならさういふ場合わたしは苛立つのだが、流石に仏様の話を聞かうと座つてゐるせゐか、ああさうか、耳が遠いからこそ音を大きくしてゐるのだなと思ひ、むしろ気の毒に思へたのである。
わたしはいろいろなことを考へさせてくれる「音」が好きである。本当は「香」より「音」の方が好きなのである。少なくとも嗅覚より聴覚の方が鋭いと自分では思つてゐる。ただしこの場合の聴覚は音楽的な音感とは別なのではあるが。