着物と香木、そして月見

九月十一日(日)暑さ続く
十一時前N子と家を出で大船より湘南新宿ラインにて恵比寿に至る。正午、西口徒歩二分のカフエに赴きKさんに会ふ。昨日連絡があり、亡夫の着物が新たに出て来たので渡したいといふことで急遽落合ふことになつたのである。この前大島を貰つたばかりであるのに、更に着物を解いて反物に戻したものや帯、丹前などを頂戴す。有難きことこの上なし。俄かに衣装持ちになりたる心地す。せめてものお礼として十月八日の鎌倉薪能にKさんを招待し三人で行くことにしたのである。勿論余はKさんから貰つた大島紬を着て行くつもり也。週末に其の薪能のチケツトが届いたので見るに、舞台の前最前列の真ん中辺りの席なれば期待も高まる。
一時から予定のあるKさんと恵比寿駅前にて袂を別ち、軽食の後山手線で原宿に移り、徒歩妙喜庵に至る。二時より香道の稽古、三時より香席。今日は筆者の作法を習ふ。来年正月の御初香の席で執筆を勤める為也。香元を勤めるN子と香席への入り方から一通りを実地にやる。身の運びの向きが茶道と微妙に異なるなど中々難しいが、不器用な余は明らかに香元よりは筆者向きなれば何とか覚えたきもの也。
香席では木曜と同じ小草香にて撫子の四文字に擬へた四つの香りを試しで聞き、本香で聞く四つの香りがそれらのどれかを当てるもの也。試しでは確実に特徴を捉へたと思ふものの、本香が廻るうちに記憶が怪しくなり、迷ひ始めると訳がわからなくなつて結局ひとつしか当たらず。恐らく、近代香料の原料単品の匂ひを覚えるやうな分析的な特徴の把握の仕方では、同じ香木でありながら違ふ部分や火加減の違ひによつて変化する香りを聞き分ける事は出来ないのかも知れぬ。とにかく沢山聞くことで、自分に染み付いた香りの捉へ方とは別の、香道らしい匂ひの捕捉が出来るやうにならねばならぬと思ふ。
此の日は先生のご主人も和服にて香席に加はつた事もあり、香満ちて後の茶菓を頂きながらの雑談もいつもより話が弾んだ。五時近くになつて辞し、急ぎ帰宅す。
買物の後十四夜の月明らかなれば屋上のテラスに出で、新生姜を肴に日本酒を呑みながら月見をす。蚊取線香二つと蚊遣り蝋燭の作る三角形の中にN子とふたり入りて月を眺むれば幸ひ蚊にも刺されず。其の後遅めの夕食。いくら丼と、越後屋さん手土産の人形町鳥近の玉子焼を食す。美味也。和ごと尽くしの週末であつた。