馬鹿鍋

十二月朔日(木)雨、寒し
会社で腹立たしき事あり。隣席の人間に余らが関与する芳香剤関連の評価設備やその使用を無駄であるが如きの発言あり。自分のやつてゐる柔軟剤関連がビジネスとして大きいため、あたかも芳香剤の仕事など取るに足らぬといふ含意が見てとれ不快なれば、今後此のI氏とは一切口を聞かぬこととす。其の際I氏に同調して余計な口を挟んだ嘗ての部下K氏も同断也。柔軟剤を担当する調香師は一軍、芳香剤は二軍といふ扱ひは、現所長の、その上の上司の意を汲んだ「思想」なのだらうが、不愉快な話である。余も正直な話芳香剤の類は嫌ひではあるが仕事として割り当てられてゐるからやるのである。柔軟剤を得意とした或る調香師は余の所属する会社を裏切つて競合他社に走り其処で実績を上げてゐるが、そんな男と仲良く飲んだ事を自慢したりする職場の「一軍」の人たちを、余は全く信頼する気になれない。余には業界で同じ職にある者に友人などゐないし、興味もない。まあ、余の方が変つてゐるのかも知れないが。
定時に退社し桜木町に往く。六時半に会社同期のM氏と落合ひ、徒歩野毛柳通りの浜幸に入る。暫くしてやはり同期のもう一人のM氏も到着し、馬鹿鍋を食し麦焼酎を飲む。今通勤時に読んでゐる『密林の語り部』で、或る男が禁忌を犯して鹿の肉を食べるといふ一節が出てきたのも奇遇だが、この店に行くことは前から決めてゐたのである。鹿肉は食べた事はあるが馬と一緒に鍋で食べるのは初めてで、煮てしまふとどちらの肉か分からなくなるものの、とにかく旨かつた。
我が同期は皆仲が良く、穏やかに心を開いたくつろぎを感じながら呑み食ひして喋るのは楽しいものである。要職にある二人は激務の中日ごろ何かと心労も多いと察するが、仕事の話は殆どせず、家族や家のことなどを中心に喋る。九時に浜幸を出て同じ通りのアブサンボムといふバーに入る。アブサントが置いてある、巴里帰りのM氏とは馴染みの店である。もう一人のM氏はアブサントは初めてとのことで、珍しがつてゐた。今回余は初めてストレートをパイプ型のグラスで飲む。矢張り強烈だが案外飲めてしまふのが怖いところでもあらう。十時過ぎ散会して帰宅。