背反 

十月四日(木)晴
余に最早反骨精神といふやうなものはない。世の中に背を向けてはゐるが、それは世の流れに馴染めないからであるし、舊いものに惹かれるのも懐古趣味であるよりは、ただ其方に親しみを感じるからに過ぎない。支へてゐるのは諦めと抑制である。或はほんのちよつとした感覚や感性の違ひなのかも知れない。例へば余がツイツターをやらなのは、その訳語である呟きも、英語のツイツターも、言葉としての音が嫌ひだからといふ理由も大きい。あれが囁きであつて、ウヰスペリアなどといふ名前であつたなら、少し氣持ちが動いてゐたかも知れない。呟きには口さがない口吻の快樂や惡意の匂ひがあるが、囁きには心地よく聴覚と触覚を刺激する響きがある。他人の思ひをモニターで讀むのではなしに、耳から聞くのであれば又違った興趣があらう。良い声の人にはきつと從ふ人も多いはずだ。しかしまあ、かういふものは作られないであらう。諦め、そして呟く方を批判することもしない。身を用なきものと思ひなした人間は、世間を批判する言葉を持たず、其の生きやうだけが声なき拒絶となるに過ぎない。余は此の境涯の中で自らを慰めるささやかな樂しみを見つけ出しては僅かな安らぎの時を得るのみである。