ダーウィンの鸚鵡

四月二十四日(水)陰後雨
先日M事務所にてサイエンスライターを名乗る人の話を聞いた。科学系の解説書や入門書の類を二十五冊も出しているとのことだが、フェルマーの最終定理について書いた時には流石に難しくて頭がゴチャゴチャになり、結局自分でもよく分からぬまま本を出してしまったのだという。しかし、その本の記述に関して批判とか苦情といったものは一切なかったらしい。本人の弁では書いた方も理解せずに書いたが、読む方もそもそも何が書いてあるか理解できなかったのだろうということだ。一場の笑い話という感じではあったが、その話は即座に私に昔読んだある話を思い出させた。それはダーウィンの本の中に出てくる、もはや誰も理解することのない、滅びた部族の言葉を覚えている最後の鸚鵡の話である。このふたつに何やら似たところはないだろうか。
鸚鵡の方の話を私は、ジュリアン・バーンズの『フロベールの鸚鵡』に倣って『ダーウィンの鸚鵡』と呼んでいるが、考えてみると不思議な話である。それが滅びた部族の言葉であることを知っているのなら、鸚鵡だけでなくその人も、鸚鵡と同じくらいには言葉を記憶していることになる。もし知らないのなら、鸚鵡の喋る言葉が滅びた部族の言葉だとどうして分かるのか。鸚鵡の話す単語が未知のものであるためには、その言葉が既知でなければならず、逆にその言葉が既知である限りそれを未知、理解不能とは言い切れない筈である。
一方のフェルマーの本に関して言えば、最終定理が分かっていないと著者の不明解な点を指摘することもできず、もとから理解できている人はそうした本をわざわざ読まないから本の不備を指摘されていないというだけかも知れない。
この二つの事例から導き出されることは、要するに、分からないと言い切るためには、ある程度分かっていないといけない、ということではないかと思う。…となると、何やらゲーデル不完全性定理のような話になってしまうではないか。ゲーデル不完全性定理の第二は「自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない」というものである。
まあ、フェルマーの「最終」定理の話からゲーデルの「不完全性」定理に結びついたのが自分の中では面白くもあったのだが、一方で消えゆく言語や、原始部族の言語に関する興味は昔からあって、折しもこの連休にはダニエル・エヴェレットの『ピダハン』と、デイビッド・ハリソンの『滅びゆく言語を話す最後の人々』という本を読もうと思っているところである。