かをりをりのうた 4

十二月七日(月)晴後陰

わがゆめはおいらん草の香のごとし雨ふれば濡れ風吹けばちる
北原白秋〜『桐の花』

おいらん草は草夾竹桃ともいひ、花魁のつける白粉の香りに似てゐるからこの名があると云ふ。「ごとし」と直喩ではあるが、雨に濡れたり風に散るとあつて、香りが固體か粉體でもあり形なきものでもあるやうな縹緲としたイメージになり、それが夢の摑みどころのなさに重なる。むしろ「香のごとし」とあることによつてからうじて、それが「何か」であることが繋ぎとめられてゐるやうな、茫漠とした不思議な感覚がある。白粉のパウダリーな香りは香料として實際に粉體なので、たしかに雨に濡れれば溶け、風が吹けば揮散して飛んでゆく。香りは目に見えないと言はれるが、液體や粉體の香料原料を扱ふ者にとつては目に見え手に觸れることのできる「モノ」である。花の香りも同じで、花といふ實體から離れて花の香りは存在しない。香りは目に見え、夢もまた然り。それでゐて摑まうとすればするりと抜けて消えてゆく。
香りや匂ひをこれ程までに共感覚的に捉へ、一方で匂ひや香り、香氣といつたことばを驚く程頻繁に使つた者は白秋を措いてない。白秋は日本文學史上もつとも嗅覚の鋭い詩人であつたと私は思つてゐる。空前絶後なのである。