かをりをりのうた 5

十二月十一日(金)嵐後陰時々晴

うちしめりあやめぞかをる時鳥鳴くや五月の雨の夕暮れ
―藤原良經(『新古今和歌集』二二〇)

あやめは花菖蒲。私はかつて旧曆五月の頃山形県長井市あやめ公園に遊び、その淡いが清楚でかつパウダリー感のある香りに親しんだことがある。うちしめり、五月の雨、夕暮れと連打されて湿度の高い鬱陶しさが醸し出され、そこにあやめの香りとほととぎすの聲が淀(よど)み合ふ。長井でのあやめの香りの記憶が蘇つて來た。様々な感覚を喚起する秀歌である。
塚本邦雄はこの歌に技法的な解釈をほどこして、「意味の上では二句で切れ、表記を厳密にするならここで一字あけ、「時鳥」以下の三、四、五句を続けるべき、即ち卒然と読み下せば、必ず時鳥で切つてしまふ懼れのあるこの奇妙で秀抜なコンポジション」を指摘する(「紅葉非在―新古今集の復權」)。また、本歌として「郭公なくや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな」を誰しも思ひつくが、それにしても本歌との語句の重複と季語の重なりに吐き気を催すとまで言ふ。ただし、その嘔吐に堪へれば「緑色の濃淡による、煙霧の中の小宇宙が[…]良經自身の魂であることを悟るだらう」と言ひ切る。歌人としての鋭い感覚と眼識をあはせ持つ邦雄ならではの批評である。
しかし、「卒然と」かをる時鳥と讀むことは間違ひなのであらうか。むしろさう讀むことで、時鳥の鳴く聲が香つてゐるといふ共感覚的な表現として味はひはさらに増すのではないか。湿りけの多い夕暮れの鳴き聲は、少しくぐもつて聞えたであらうし、湿度を含んだ音のゆらぎがあやめのしつとりとした匂ひに重なつて、香りに似た感覚として感じられたとしても不思議はないからである。