時間について

十一月九日(木)晴
駅から家まで歩いて帰る道に信号がふたつある。最初の信号を待つとふたつ目も必ず待つことになる。逆に、ひとつ目をギリギリのタイミングで待たずに渡り終えると、次の信号は待たずにすんなりと渡れるのだ。ふたつの信号はきっちりと正確に同じ間隔で作動しているのである。ところが、飲んで帰った時など、最初の信号を待って渡ったのに、そのまま次も待たずに丁度渡れてしまうことが多い。これを今まで酔って足どりが遅くなるせいだろうと思っていた。昨日も少し飲んで帰り、電車の中でかなり眠り、駅から歩き始めて最初の信号を待つことになった。青になって歩きはじめ進んで行くとふたつ目も丁度青に変わって待たずにすんだ。ただ、たいして飲んだ訳でもなく酔いもないので、歩くのが遅いとは思えずちょっと意外な気がしてふと気づいたことがある。もしかすると、歩みが遅くなったのではなく赤から青に変わる間本当は少し間があって待っていたにも拘らず、その時間の方を殆ど感じなかったがために、すぐに渡れたと思いこんだだけなのではないかという疑問を感じたのである。酔っていたり居眠りをしていたりすると、時間の感覚が普段とくらべて伸びたり縮んだりすることがよくある。一駅間のたった五分の間熟睡して、はっと目が覚めた時に三十分くらい経ったようにしか思えないこともあれば、飲んで酔って喋って笑って楽しんでいると、さっき時計を見てから三十分経ったかなと再び時計を見ると二時間過ぎていたりすることもある。酔ったりまどろんだりする際の特徴だと思っていたが、その両者に共通するのが、五感の感度が著しく落ちている状態にあるということに気づいた。言い換えると、外界の刺激―景色だったり音だったり、匂いや風や寒さに至るまで―に対する感覚が通常よりはよほど鈍くなっている状態である。逆にしらふで覚醒している時は、無意識的にではあれ五感は環境が発するさまざまな刺激を常にセンシングないしモニタリングして脳の中でバランスよく処理しているはずである。物理的に一定の間隔をもって進む「時間」なるものに、それはそれとして我々が統一された世界の中の存在として違和感を覚えないのは、つまりはそれらが感覚刺激の中枢処理における確固たるリズムと大きな齟齬を来さないからなのではないか。つまり、日常に流れる一定のリズムで進んでいる(ように感じる)時間という感覚は、つまるところ外界の刺激に対する感覚反応の総和を一定に調整している脳の作用の結果に過ぎないのではないだろうか。実際にはいつも通りに信号を待っていたはずなのに、視覚は信号の色とその意味を捉えていても、普段は働いている聴覚や嗅覚が酩酊による動作不全によっていつものリズムが崩されることで、過ぎ去った数秒の意識が飛んでしまい、待たずに渡ったように錯覚させるのではないか。言い換えれば、人間にとって時間という感覚は、まさに感覚であるが故に、物理的規則的な等しく分割されたセコンドの積みかさねなどではなく、あくまで外界からうける感覚刺激の処理の総和やリズムに基づくものなのではないかと思い至ったのである。そうであれば、歳を重ねるにつれ時間が経つのが早く感じられることも納得が行く。五感の感度が落ち、外界のさまざまな刺激に反応する割合が減ってそれがスタンダードになるのだから、感覚の中で時間は圧縮され、あっという間に一年が過ぎて行く印象を残す。そして、誰もがみな同じように前の年よりも歳を重ねるので、実はその速度感は人によって違うのに、「時間がどんどん早く過ぎて行く」ことに誰もが同意してしまうという訳だ。逆に、子どもの頃を思い出せばわかるように、感性が鋭敏で世界が謎と未知の感覚に満ちている間は、時間はひどくゆっくりと流れる。小学校六年間はまるで終身刑のように長々と日々が続いていた記憶がある。同様に、何事かに打ち込んで感覚を研ぎ澄まして集中している時は、一秒が五秒くらいあるように感じることもごくたまにはあるのではないか。時間は五感が作る。ただ、この場合の感覚は、耳や目や鼻といった感覚器だけを指すのではない。加齢による感覚器の衰えよりも、致命的なのは感覚刺激を受け取って処理する脳の老化であろう。感性とは感覚を受け取った脳のはたらきなのである。見るもの聞くものにみずみずしい反応をし、驚いたり感動したり楽しんだりして、感性ゆたかに過ごしていれば時間はきっと伸びるはずである。言ってみれば、これは五感相対性理論である。逆に、同じ外界、同じ環境、同じ刺激の中で暮らしていれば、時はどんどん縮んで行く。変化を、刺激を常に追いもとめ、好奇心と柔軟な感受性を失わずにいれば、外に流れる物理的な時間とは別に、人生をずっと長く生きることが出来るに違いない。それは恐らく極度の緊張やストレスや張りつめた神経と、泥酔や安逸や陶酔との間、すなわち中庸の状態においてこそ実現可能なものなのではないかという気がしている。現代人の多くはその両極端の間を揺れるばかりで、結果的に生き急いでいるのかも知れない。