街の色彩

 穴八幡の交差点から地下鉄早稲田駅に向かって歩いているとき、突然目の前の景色が色彩を増し、周囲の建物や店、看板やショーウィンドウなどが鮮明に見え始めた。驚いて周りを見回すと、それは1980年代の早稲田通りそのものだった。その途端にわたしは思い出した。学生時代には街がこのように見えていたことを。そして、同じ場所をこの前歩いた際にはまるで違った印象であったことを。そのことに気づいてわたしは涙を流した。

 

 以上は、私が実際に夢で見た一場面である。夢の中でわたしは泣いた。目が覚めて、あらためて泣きはしなかったが、泣いた意味を考えはした。

 たしかに、若い頃に街を歩けば通りの左右は色彩に満ち、建物の形や看板の文字やロゴ、気になるカフェなどの入り口のエクステリアなどがはっきり見えていたし、行き交う人の顔や服装もどんどん目に入って来た。街を歩くだけで楽しく、街の隅々までしっかりと見えている感覚があった。いろいろなことに気づくから、つねに刺激に富んでいて面白かったのだ。

 それが今や、街を歩いていても色彩を感じることもなく、すれ違う人の顔を見ることもない。

 コロナによるマスクの着用という要因もあるだろうし、学生時代はバブル前夜の時期だから実際今より街の色彩はどぎつめだったのかも知れない。しかし、今やわたしは街を歩いていて景色から刺激を受けることが明らかに少なくなっており、思い返せば街の色彩すら感じることがなくなっている。同じ通りを歩いているのに、景色はのっぺらぼうで色彩に乏しく、外界の刺激に興味をなくしたように伏し目がちで歩く今のわたしには、街の姿は見れども見えずの状態なのである。

 もちろん、齢をとって動体視力が落ちたということはあるだろう。歩きながら視認する情報量が減っているのである。建物や物の形の輪郭線がシャープに見えるのではなく、まとまってぼんやりと丸みを帯びて見えるし、従ってそれらを構成するディテールや個々のモノ、宣伝や店の名の文字などにも気づきにくい。それは色彩にも言えるのかも知れない。色調の違いや明度・彩度による細かな差異は識別しにくくなっているのだろう。混合色と同じで、総じて街がグレーにしか感じられないのである。

 しかし、それ以上にやはり興味じたいを失っているのだ。街や建物や店の姿やその良し悪し、今度あそこの店に入ってみようか、ショーウィンドウに飾ってあるあれが欲しい…といった、目にしたものから情動に類するものが殆ど動かないのである。人の姿、たとえそれがちらと見て若い女性、美しい女性と分かっても目を向けて舐めるように眼差しを向けることがなくなって久しい。若い頃は、可愛い女性がいればあんな娘が恋人だったらいいのにと思い、美しい女性が目に入れば見とれて目で追った。ところが、現在は女性にまったく興味がなくっており、色と同じで美醜とりまぜてグレーな人型の物体にしか見えない。まあ、これはマスクのせいであることは大きい。目だけ出ていると大抵奇麗そうに見えるからだ。そう言えば、マスクをしていても明らかに不細工な女性だと、どこがどうだからそう感じられるのだろうかと、かえってじっと見ることはあるにはあるが…。

 いや、女性に限らず、昔は見かけて何か特徴のある人であれば、いくつくらいだろうとか、何をしている人だろうといった好奇心から想像を働かせることが頻繁にあったような気がする。街で見かける「他人」の存在感が濃かったとも言える。今は電車で前に座った人に何の興味も持たず、男であればトラブルになりそうな人かどうかを確かめるくらい、混んだ電車であれば万が一にも痴漢に間違えられぬよう気をつけるだけで、とにかくその人に関する「想像」まで含めて、「関わりたくない」のである。出来ればいないことにしたい存在なのである。存在感のあろうはずもない。存在感が出るとすれば、実際にトラブルが起こった場合ではないか。

 こういったことは、わたしが老齢に差し掛かってきたからの変化なのだろうか。それとも、知らず知らずに、時代の大勢を占める他人との接し方の標準的な態度に馴致された結果なのだろうか。昨今の60年代ブームというのも、その底には意外にあの頃の他人との近さへの郷愁があるのかも知れない。わたしが十代だった70年代にもまだそういった暑苦しいほどの、他人の近さ・存在感があった。それが今になって振り返ると、80年代、90年代と次第に希薄になって行き、特に最近は善人か犯罪者しかいないような世の中になって、サステナビリティコンプライアンスインクルージョンに意識の高い人にあらざれば変質者とみなされかねず、その結果「普通の人」という名の個性豊かな人々がいなくなってしまったのではないか。

 年齢による変化か、時代の心性の変容か。書斎に入って机やPCに向かえば、好奇心は決して衰えていないのを感じて、何とも言えない気分になる。メールやショートメッセージ、SNSでのやりとりが常態化した今、それが良いか悪いかは別として、コミュニケーションの相手としての「他人」にもはや「身体」は必要ない、というより余計なものなのだろう。その「余計なもの」が電車で隣に座っていても、興味は持てないということだろうか。