顔真卿

 遅れ馳せながら顔真卿展に行って来た。金曜の夜であったが、ロッカーに荷物を入れるのにしばらく待つほどの混みようであった。展示品は実に多彩であり、漢字の成り立ちから書体の確立を追えるようになっているのは親切だが、如何せん混雑して中々進まないので、いつになったら顔真卿に行きつけるのか不安になってあまり集中できない。王義之はともかく欧陽詢は少し飛ばし、褚遂良はきちんと見て、やっと顔真卿に移る。楷書ではやはり顔真卿が一番好きだと再確認する。目玉である台北故宮博物館所蔵祭姪文稿には30分並んであっという間に過ぎ去るという感じだったが、本物の迫力は感じることが出来た。心情の移り変わりがそのまま文字に乗り移っているのがよく分かる。これを見ているから、その後に展示された法帖の同文を頭の中で再合成できるようになる。

 閉館までの短い時間にその後の展示を見たのだが、やはり懐素の自叙帖は圧巻であった。酔狂の狂草、自在の愉悦である。それにしても、今回の展覧会の唐宋の展示品は素晴らしいものばかりである。蘇軾、黄庭堅、米芇、蔡襄が並んでいるのだから嬉しくなる。特に米芇の虹県詩巻や行書三帖巻はいつ見ても格好よくて惚れ惚れする。祭姪文稿が展示されるに当たって、超国宝級を日本などに貸し出すことに、怒り狂った中国人や台湾人が多かったというが、わざわざ日本に見に来たら、そうしたものまで見られて得した気分になって貰えたのではないかと思う。それとも懐素をのぞけばそれらが皆日本の博物館の所蔵であることに気づいて、改めて怒りを爆発させるのであろうか。

 中国の書の大家たちと並んでしまうと、さしもの日本の名筆たちも、ややひ弱な印象を受ける。唯一肩を並べられるのは空海である。三筆も出ているのだが、「大陸的」な鷹揚さが欠けているのがよく分かる。行成なども、日本文化という枠組みを外してしまうと、何だか弱弱しくて見ていられない感じになるのである。