嫌ひなことば遣ひ

 いい歳をした大人が「はずい」だの「むずい」などと言つてゐるのを耳にすると、殆ど生理的な嫌惡を覺える。「まるつと」「しらつと」なども耳障りである。さういふことば遣ひをする人は語彙力が貧弱なのか大抵同じ語を繰り返すので、如何にも頭が惡さうに見える。また、關西人でもないのに「めつちゃ」「めつさ」を使ふのも嫌ひである。「マクド」「ミスド」も下品な寸詰まり感があつて余は決して遣はない。それと、今更ではあるが「させていただいていらつしやる」人々の過剰敬語にも吐き氣を催す。前世代の平服が禮服に格上げされる衣裳の歷史に逆行する、敬語の格下げにもつながり、さうした敬語の平板化は結果として敬語が意図する上下關係の明確化や敬意の表出が不鮮明になるからである。平等對等な社會を目指すといふのならいつそのこと敬語一切抜きの方が良い。謂れなき差別は無くすべきものだが、世の中平等であつた例はなく、地位の上での格差や區別をことばで表はしたいのなら、敬語の濫用と過剰を慎み適切に遣ふことが肝要であらう。甚だしくは「もの」にまで敬語を遣ふに至つては何をか言はむやである。