カラー写真シリーズ

 「昭和の残像」を見に来てくれる人が多い(このブログは2~3人の固定客しかいない)のに気をよくして、ここでも写真を載せていくことにした。ただし、こちらはカラーの、単に自分が美しいとか面白いと思うだけの写真である。

 第一回はこの夏に行った平城京の東院庭園である。復元庭園だが、中々の出来でありしかも無料で見学できる。洲浜も美しく建物も古雅を感じさせてくれる。奈良に行ったら是非訪ねてみることをお勧めする。

東院庭園

 

捨てるための読書

 蔵書の整理をはじめた。昨年に引きつづき、本を大量に処分(売却ないし廃棄)するのである。今回は車に積める量を超えたので、出張引き取りに来て貰うことにした。電話で問い合わせること四件目でやっと来て貰う古書肆が決まった。最初の三件は対応が覚束なく、言わずもがなのことを言われて不快になるなどして頼む気になれなかったのだが、やっとまともな応対を得て頼むことにしたのである。最初から疑うような口調で対応されたり、質問に不確かな答えしか出てこないところに頼む気になれないのは当然だろう。

 今回処分するのは小ぶりな本棚3つ分くらいだが、文庫本や新書も含まれるので冊数はけっこう多い。捨てる分野としては生物学、人類学、映画関係、日本の近代小説、独仏英伊文学のすでに読んだもの。大菩薩峠全巻、カサノヴァ回想録全巻、日本の古代史、風俗史、まだ残っていた性科学、エロティシズム系、エロティックアート。哲学系も一部を除いてかなり捨てる。残りの人生を考え、今後再び読むことも参考にすることもないだろうと思うものは捨てようと思うのだが、それでも未練があって残すものもあり、逆によく今まで取っておいたなと思うようなものもあり、本の処分というのは常に過去が自分に問いかけ、あるいは糾弾してくるような感覚がある。

 まとまったテーマのものとしては小津安二郎関係の本33冊もこの際処分することにした。ただ、これは売るのではなく小津好きな友人に、必要な時には貸して貰えるという条件で譲ることにした。ただ、その際見直していてまだ読んでいない本があるのに気づき、譲る前に読んでしまおうと思って読み始めたら、これがなかなか面白い本で、これは「小津本」ではなく昭和史に属すると再解釈して手もとに置くことにした。「帝国の残影」という本である。

 その後も、処分する前に読んでしまうことにして数冊読んでいるが、読んでしまうと手もとに残したくなる本と、本当に処分していい気になる本が出てくる。後者は考えてみると読まなくてもいいものとも言えるわけで、そうなると空しい気がしてきて「捨てるための読書」は止めることにした。読んで面白いと思ったものはやはりしばらくは手もとに置いておきたくなるものであり、やがて興味が薄れ、また読むことはないなと思えて初めて手放す気にもなるものだろう。逆に何十年も読まずに書棚に並んでいたものは、この先も読まないと思って捨てられる。ただし、その場合でも古典や岩波文庫だったりすると一瞬ためらう。一時岩波文庫の絶版本やリクエスト再刊などは見つけると無条件に買っていたが、結局今に至るまで読んでいないものも多い。昔は買っておかないと、いざ読みたいときに古本屋で見つけるのは至難の業という感覚があった。しかし、今はネットで探せるし図書館もネットで予約してすぐ入手できるので、持っていることにさほど価値はないのである。だから処分すればいいのだが、岩波文庫に入っている古典作品をまだ読んでいないということに自責の念があり、今回もある程度残すことになった。読んだ本は手放すことに抵抗はないのに、我ながら不可解な心理である。

ふたつの景色

 車でヨーロッパの国々を廻っている。ベルギーやオランダ辺りだろう。駅に行く用事があって進行方向の道路右側を歩いて行くと途中で歩道がなくなり、横断歩道もないところで道の反対に渡らなくてはならない。ひどいものである。何とか車の途切れるのを待って渡ったが、駅に行くにはどちらにしても車道のアンダーパスを通って川を越えなければならない。諦めてホテルの部屋に戻って地図を見ると駅の名がIDということを知る。昔の名前をやめてローマ字2文字に簡素化したらしい。

 翌朝目覚めるとスマートフォンが鳴っていて、とると私の父と私の息子Kがふたりでファミレスでパフェを食べている画面が映る。幼稚園が休みになったのだという。音声が悪くて何を言っているかわからない。隣で画面を覗き込んだ家内が「かわいい」と言うが、Kが驚いているので私は嫌な顔をして家内を遠ざける。Kは最初の妻との子どもである。電話を切ったあとで謝るが返事もしないので喧嘩になる。

 私は外にある浴場に行くことにする。部屋のバルコニーから斜面を下っていくと水のきれいな川が流れていて、そこにかかる橋の途中に浴場があるのである。ところが橋の途中にジョイント部分のようなところがあり、一畳くらいの丸いスペースなのだが、ぐらぐらしていて落ちそうになる。そのとき川の底を見ると犬がいる。深さ1~2メートルの水深の川底にすっと立ったまま動かないのである。最初は置物かと思ったが、そうではないらしい。泳ぐのでも浮かぶのでもなく、川底でじっとしている。見ればその先に何頭もいるし、中には猫もいる。私はこのことを大声で家内に告げるが信じようとしない。何度も叫んでやっと出てくると。「あら本当」と驚くが、すぐに「危ないから気をつけて」と言う。確かに、猫など今にもこちらに飛び掛かりそうな邪悪な目でこちらを睨んでいる。私はそばに落ちていた木の棒を拾って身構えるが、すぐにいくらなんでもここまでジャンプできないだろうと思い、浴場に入る。扉を開けると中は意外に人が多い。コインロッカーが並んでいるが、私はコインもタオルも持ってきていないことに気づく。すぐ横の大浴槽は日本の温泉のようでいて、ただし人は海水パンツを穿いていてさすが外国だと思う。私も何故か自転車用のパンツを穿いていたのでそのまま入ることにする。微妙なぬるさなのと、まわりは中国人ばかりなので居心地が悪く、すぐに出て、いつの間にか出来た高い壁を何とか乗り越えて部屋に戻る。

 それから帰り支度をして車で高速道路を走っていると、上り坂のカーブで途中で先が見えなくなり、ハンドルを切り損ねて道を外れて高台の上に車が止まった。降りてそとを見ると眼下に海が広がり、対岸に蜃気楼のように巨大都市の高層ビル群が見える。とても美しい景色なので写真を撮ろうとするが、鞄からスマートフォンがなかなか見つからないのである。

ジュルナリスト

 山間の道をずっと奥に進み、あるジャーナリストの家を訪ねる。小太りのそのジャーナリストにわたしは「先生」と呼びかけて、最近彼が書いたルポの感想を述べ、取材のしかたや執筆の姿勢などについて質問している。彼が誠実なジャーナリストであることがわかって、わたしは感激してハグをする。それから駅まで車で送ってもらうことになる。車は自転車の二人乗りのような感じで、人相の悪い人たちがいるパチンコ屋の通路を通り抜けようとする。大丈夫だろうかと危惧していると、案の定一緒に後ろに乗った美男の若者が引きずり降ろされ、「お前は××ではないか」と言われる。よく似ていると言われるが違うと言っているのに、ボスが呼んでいるというので連れて行かれ、おそらくお釜でも掘られたのだろう、上気したまんざらでもない顔をして戻ってくる。それから駅に行き、ちょうど電車が発車しそうだったが無理をせずに見送るが、後になって今の電車の自由席でも座れたのではないかと悔やむ。しばらくして入線して来た次の電車の自由席に乗り込む。一人掛けの良い席に座れたが、通路やシートはゴミだらけである。

街の色彩

 穴八幡の交差点から地下鉄早稲田駅に向かって歩いているとき、突然目の前の景色が色彩を増し、周囲の建物や店、看板やショーウィンドウなどが鮮明に見え始めた。驚いて周りを見回すと、それは1980年代の早稲田通りそのものだった。その途端にわたしは思い出した。学生時代には街がこのように見えていたことを。そして、同じ場所をこの前歩いた際にはまるで違った印象であったことを。そのことに気づいてわたしは涙を流した。

 

 以上は、私が実際に夢で見た一場面である。夢の中でわたしは泣いた。目が覚めて、あらためて泣きはしなかったが、泣いた意味を考えはした。

 たしかに、若い頃に街を歩けば通りの左右は色彩に満ち、建物の形や看板の文字やロゴ、気になるカフェなどの入り口のエクステリアなどがはっきり見えていたし、行き交う人の顔や服装もどんどん目に入って来た。街を歩くだけで楽しく、街の隅々までしっかりと見えている感覚があった。いろいろなことに気づくから、つねに刺激に富んでいて面白かったのだ。

 それが今や、街を歩いていても色彩を感じることもなく、すれ違う人の顔を見ることもない。

 コロナによるマスクの着用という要因もあるだろうし、学生時代はバブル前夜の時期だから実際今より街の色彩はどぎつめだったのかも知れない。しかし、今やわたしは街を歩いていて景色から刺激を受けることが明らかに少なくなっており、思い返せば街の色彩すら感じることがなくなっている。同じ通りを歩いているのに、景色はのっぺらぼうで色彩に乏しく、外界の刺激に興味をなくしたように伏し目がちで歩く今のわたしには、街の姿は見れども見えずの状態なのである。

 もちろん、齢をとって動体視力が落ちたということはあるだろう。歩きながら視認する情報量が減っているのである。建物や物の形の輪郭線がシャープに見えるのではなく、まとまってぼんやりと丸みを帯びて見えるし、従ってそれらを構成するディテールや個々のモノ、宣伝や店の名の文字などにも気づきにくい。それは色彩にも言えるのかも知れない。色調の違いや明度・彩度による細かな差異は識別しにくくなっているのだろう。混合色と同じで、総じて街がグレーにしか感じられないのである。

 しかし、それ以上にやはり興味じたいを失っているのだ。街や建物や店の姿やその良し悪し、今度あそこの店に入ってみようか、ショーウィンドウに飾ってあるあれが欲しい…といった、目にしたものから情動に類するものが殆ど動かないのである。人の姿、たとえそれがちらと見て若い女性、美しい女性と分かっても目を向けて舐めるように眼差しを向けることがなくなって久しい。若い頃は、可愛い女性がいればあんな娘が恋人だったらいいのにと思い、美しい女性が目に入れば見とれて目で追った。ところが、現在は女性にまったく興味がなくっており、色と同じで美醜とりまぜてグレーな人型の物体にしか見えない。まあ、これはマスクのせいであることは大きい。目だけ出ていると大抵奇麗そうに見えるからだ。そう言えば、マスクをしていても明らかに不細工な女性だと、どこがどうだからそう感じられるのだろうかと、かえってじっと見ることはあるにはあるが…。

 いや、女性に限らず、昔は見かけて何か特徴のある人であれば、いくつくらいだろうとか、何をしている人だろうといった好奇心から想像を働かせることが頻繁にあったような気がする。街で見かける「他人」の存在感が濃かったとも言える。今は電車で前に座った人に何の興味も持たず、男であればトラブルになりそうな人かどうかを確かめるくらい、混んだ電車であれば万が一にも痴漢に間違えられぬよう気をつけるだけで、とにかくその人に関する「想像」まで含めて、「関わりたくない」のである。出来ればいないことにしたい存在なのである。存在感のあろうはずもない。存在感が出るとすれば、実際にトラブルが起こった場合ではないか。

 こういったことは、わたしが老齢に差し掛かってきたからの変化なのだろうか。それとも、知らず知らずに、時代の大勢を占める他人との接し方の標準的な態度に馴致された結果なのだろうか。昨今の60年代ブームというのも、その底には意外にあの頃の他人との近さへの郷愁があるのかも知れない。わたしが十代だった70年代にもまだそういった暑苦しいほどの、他人の近さ・存在感があった。それが今になって振り返ると、80年代、90年代と次第に希薄になって行き、特に最近は善人か犯罪者しかいないような世の中になって、サステナビリティコンプライアンスインクルージョンに意識の高い人にあらざれば変質者とみなされかねず、その結果「普通の人」という名の個性豊かな人々がいなくなってしまったのではないか。

 年齢による変化か、時代の心性の変容か。書斎に入って机やPCに向かえば、好奇心は決して衰えていないのを感じて、何とも言えない気分になる。メールやショートメッセージ、SNSでのやりとりが常態化した今、それが良いか悪いかは別として、コミュニケーションの相手としての「他人」にもはや「身体」は必要ない、というより余計なものなのだろう。その「余計なもの」が電車で隣に座っていても、興味は持てないということだろうか。

 

断絶か淘汰か―家元制の未来

 コロナ禍により、わたしたちの生活や社会、慣習などに大きな変化が起こると言われて久しい。たしかに、時差出勤や在宅勤務が常態化し、家にいる時間が増えた一方で、やはりひとに会う機会は劇的に減った。しかも、人前では常にマスクを着用するので、鼻と口をふくむ顔全体を見せ合うのはごく親しい間がらだけになってしまった。

 このコロナ禍で大きな打撃を受けた業界、業種あるいは職種も少なくないと思うが、さまざまな芸道や芸事、遊芸もまた少なからぬ影響を蒙ったのではないか。特に、茶と香は、ふつうに考えれば壊滅的な打撃を受けただろうと思われる。小間の濃茶など、密なうえに同じ茶碗の廻し飲みだから論外だろうし、聞香もマスクをしていては香りを嗅ぐことができないからである。

 今回は、わたしの身近な例から、コロナ禍における茶花香を中心とした、いわゆる習い事の現状と未来を考えてみたいと思う。コロナとともに滅びゆく芸道もあるのではないかと思うからである。

 コロナ以前に、わたしが習い事としてつづけていたのは、茶道、香道と尺八(琴古流)である。この三つの習い事に共通しているのは、この活動休止期間に月謝や謝礼を支払っていないということである。そんなことは当たり前だと言われるかも知れないが、実は当たり前ではないのである。

 家内はコロナ前、抹茶と香道のほかに、煎茶道も習っていた。煎茶道とは、抹茶ではなく文字どおり玉露などの煎茶を淹れる茶道で、江戸期に始まった。道具やしつらいに中国風の文人趣味が多く取り入れられており、独特の洗練された美意識があるようにわたしには見受けられた。家内が所属していたのは、そのうちのひとつの流派である。この流派では、稽古や茶会がないにもかかわらず、会費だけでなく通常の活動の中で払っている月謝や水屋料、菓子代なども徴収するのである。

 自分の都合で出られない場合、月謝制であるのなら、きちんと払うのも仕方がないかも知れない。しかし、コロナという不可抗力の事態で稽古ができないにもかかわらず、月謝を払いつづけることに、少なくとも若い世代には抵抗感があるのではないか。

 いや、古い世代であっても、今までこんなことはなかったのだから、おかしいと思う人もいるはずである。しかも、稽古はしないのに、コロナ禍で茶会を開き、コロナを恐れて欠席する場合でも茶会代は払わされるという。これでは、コロナ禍でも何とか煎茶道の伝統を繋ぎたいという思いからというより、家元を存続させるためだけにお金を払わされている気になる。

 わたしの場合、三つの習い事は月謝制ではなかったので、年会費をのぞけば稽古に対する費用は一切払っていない。というより、香道と尺八の先生はともにとても裕福なので、あまり金銭にこだわらない方なのである。煎茶道のほかの流派や別の芸道の家元が同様なやり方をしているかは知らないが、少なくともこの煎茶道の流派のやり方は、家元制をとる芸道の矛盾を図らずもあぶり出したようにも思われる。

 そもそも、抹茶よりも煎茶を習う人が少ないうえに、煎茶道は流派が乱立していてたくさんの家元がいる。自然と、それぞれの流派に属する人も少なくなるわけである。しかも、門人の老齢化が進んでいて、若い人はほとんど入らない。五十代前半の家内など、流派では一番若い部類なのである。人が少ないから、既存の会員から少しでも多く搾り取ろうとしてか、各階梯の免状取得の費用を値上げし、新しいお点前を創作しては、皆伝の弟子たちにもさらに免状を取らせているという。

 長年どっぷりとその道に浸かり、流派の年中行事に参加することが生きがいとなっている門人ならともかく、家内をふくめ若い世代では、煎茶はやりたいが流派の行事すべてに参加を義務づけられることに抵抗感のある者も少なくないだろう(正確には、参加は義務ではないが、欠席でも参加費は取られる)。煎茶道に限らないが、コロナで中断したことで、そうした稽古事のしきたりの不合理さを改めて感じることになり、それをきっかけに習い事をやめた人も少なくないという。

 問題はふたつある。ひとつは家元制そのものに由来する。もうひとつは、家元制に強く見られるが、家元制以外でも起こり得ることで、すなわち状況の変化に適応するために変わろうとしないことである。もっと悪いのは、場当たり的な対応をして、それを変化と勘違いすることである。

 滑稽なのは、コロナ禍に対応してマスクをしてお点前をし、途中でアルコール消毒する手順を加え、さらに実際には飲まずに真似をするだけの「研修会」が開かれたということである。そんなことをして楽しいわけもないが、現在の煎茶道とは要するに点前の作法だけを教える形骸化した芸事にほかならないから、そういう「フリ」の稽古という、形骸化の二乗のような行為を滑稽なものとも思わなくなっているのであろう。

 必要なのは、コロナ禍のもとで今までのような稽古や茶会ができないことを踏まえ、オンライン稽古をふくめた柔軟な選択肢を示して、納得のいく費用対効果のパッケージを提示することではないかと思う。言い換えれば、お金はないが煎茶に興味を持つ若い世代を支援し育てていく姿勢である。敷居を低くして間口を広げる戦略だが、家元制という何よりも慣習と前例、そして格式を重んじる社会では、それがなかなか難しいようだ。

 家元も食べて行かなくてはならないのはわかる。しかし、稽古もせず何の改革もしないで、従来のやり方で集金を必死にやればやるほど、経済的に余裕のない若い世代や中堅は離れていくのではないか。人が減ってさらに諸費用を値上げするツケは古参の弟子たちに回されるわけだが、その人たちも弟子をたくさん抱えているわけではなく、そもそも高齢だから先はそう長くないのである。

 かくして、高齢の古参が他界していけば、やがてこの流派は消滅するのではないか。そうなればそうなったで、別に構わないのではないかと思う。高い月謝を払ってでも、それに見合う価値が得られると思えば人はつづける。中に経済的に恵まれた人がいれば、いわゆるパトロンとして援助を与えることもあるだろう。それがなくなってしまえば、淘汰されて当然なのである。いくら伝統だの文化だのと言っても、存続する価値を誰も認めなくなれば滅びても仕方がないことであろう。だいいち、ひとつくらい流派がなくなっても、煎茶道の流派はほかにいくらでもあるのである。

 多くの流派家元が乱立する芸道としては、煎茶のほかに生け花、すなわち華道がある。しかし、このふたつの芸道には決定的な違いがある。華道は家元であっても作品を作らねばならないから、その力量は歴然とする。もちろん家元の権威で「形」を作るのであるからアドバンテージは大きいが、それでもあまりに力量の劣る家元には人がつかないのではないか。逆に、だからこそすぐれた力量を示した者が新たに自分を家元とする流派を立ち上げられるのだろう。

 これに対し、煎茶も抹茶も、そして香道も、眼に見える作品を残すわけではない。ただ単に他の流派と差異を際立たせた作法を教えるだけとも言える。その意味で、家元の力量を問われることはあまりなく、家元が規範であり、すべては権威によって成り立っている。

 ところで、家元のそうした権威を裏づけるのは、たいていの場合血筋の正統性である。初代家元の血を引き継ぐ者しか通常は家元にはなれないし、だからこその権威なのである。これは天皇制とまったく同じシステムである。

 もっとも、家元制の原理を、日本の社会のすみずみに内在するものとして超歴史的に捉えることには問題があるようだ。家元制は江戸時代、それも18世紀に入って確立されたとするのが一般的な理解だからである。

 ただし、守屋毅によれば江戸期に家元制が確立するための前提は、①幕藩体制への依拠、②京都という地盤の維持、③家の正統性の確立、とされるので、正統性の根拠としての血筋や、相伝を受けた血脈の正統性が必要だったことはたしかである。その意味で、少なくとも近代日本の天皇制における万世一系というフィクションとの類似性があるとは言えるだろう。

 一方で、歴史的には家元制の確立に先立って、遊芸の大衆化という現象が起こっていなければならない。公家や武家を中心におこなわれてきた諸芸への民衆(町人、農民層)の関心が17世紀に強まったとされ、そうした需要があってこその遊芸の一般化なのである。そして、町人層は習うに当たって芸道や師匠・師範の正統性を期待し、それに応えて正統性を保証するものが家元制だったことになる。

 明治維新後に、家元たちが幕府や藩からのお墨つきを失っても、何とか家元制が存続しえたのは、江戸期に家元制に移行した諸遊芸への興味関心を引きつづき一般国民が持っていたからであろう。そしておそらく、明治政府の推し進めた近代天皇制を中心とした国家のシステムと家元制との親和性が高かったために、近代の日本人にも抵抗なく受け入れられてきたということだろう。

 家元制と天皇制との親和性を示す例のひとつに、不完全相伝がある。言わずと知れた、「家元総取り」システムである。家元制が確立するまで、免許皆伝となった者は相伝としてその弟子に免状を与えることができたのだが(完全相伝)、その権限を取り上げてすべての免状発給権を家元に帰すことによって、皆伝・相伝者が勝手に弟子に伝えられないから「不完全」なのである。完全相伝は古今伝授のように、疑似的な一子相伝モデルであったのだが、それを否定することで、家元はその権威と集金システムを盤石なものにしたのである。

 いわゆるピラミッド型システムであり、明治以降の天皇を頂点とする国家体制、あるいは組長のもと直参の一次団体の下に、二次団体、三時団体とつづくヤクザの世界と同じである。というか、家元制は天皇制よりヤクザ組織により近いのかも知れない。いわゆる上納金でトップが潤うからである。

 そう言えば、煎茶の世界でも、老齢の先生について習いはじめたものの、その先生が亡くなった場合、ほかの先生につくのではなく家元直門にさせられるという。これなど、傘下の組が解散となって組員が「本家預かり」となるのと酷似する。本家預かりは客分とも違い、シノギ次第では一次団体になれる可能性を残す。煎茶のこの流派の上納金への執着を見ていると、ほとんどヤクザ組織ではないかと思えてくるから不思議である。もっとも、山口組の例を見ればわかるように、大きなヤクザ組織では組長の跡目が実子や血縁でないことの方が多いから、疑似的な<親子>関係が築かれるとは言え、家元制の方が固陋にも思えてくる。

 話を不完全相伝に戻すと、家元と言っても、たとえば香道では御家流と志野流ではまったくシステムが違う。江戸期に蜂谷家によって家元制が確立された志野流では不完全相伝をとっているので家元総取りであるが、御家流の家元とされる三條西家は、三條西実隆が香道そのものの祖ともされて由緒こそ正しいものの、香道の家元を名乗るのは近代以降であり、御家流としての家元制を確立していない。そのため、御家流にはいくつもの会があって、それぞれが古今伝授に近いかたちで相伝をつづけて血脈を継いでいるのである。

 ところで、家元制によってもっともその家元の富と権威が強まったのは、何と言っても千家であろう。三千家のような巨大な組織になれば、その上納金も莫大なものになり、その富がまた権威を強化するのである。しかも、表裏の両千家は皇族との婚姻関係によって貴顕の家系となり、その家格は現代において五摂家本願寺大谷家などと同等と言えるのではないか。日本最大の門徒数を誇る宗派浄土真宗本願寺派を束ねる大谷家の財力権力はとてつもなく大きいが、裏千家の門人の平均収入は真宗門徒のそれより遥かに高いと思われるので、匹敵する財力があろう。茶の湯という遊芸の家元というより、宗教の教祖や門主などの地位に近い。茶名に「宗」の字がつけられるのもむべなるかなである。

 裏千家のような巨大な家元制では、末端の負担をある程度抑えても上納金の総額は莫大なものになるだろうが、上納金を大きくするために弱小の家元が末端の負担を重くすると、その流派そのものが滅びる可能性は高い。特に、コロナという危機に際して、天皇制やヤクザ組織の小さなコピーとしてシノギをつづけるのは、かなり難しいのではないかと言うのがわたしの予測である。

 そうならないために、時代に対応せよとは言うは易しである。家元制確立期に大名の招聘に応じて、それを時流への適応と思ってしたかどうかは知らないが、京都での基盤を失って結果として地方の一分派のようになってしまった芸道の家元もあるという。変化が求められている時期に、あえて何もしないのも選択肢のひとつではある。適応しようと変えた者、変えなかった者、そのどちらが生き延びるかは、現時点ではだれにもわからない。ただ、いずれかの時点で、家元制が大事か、その遊芸、芸道の継承が大切かの判断が迫られる時は来るのではないだろうか。

 わたし自身は、華道や舞踊のように実力次第で家元を名乗り、競争原理で淘汰されていくことの方が自然でいいと思うし、家元が権威の塊でその芸道のすべての規範を牛耳るようなシステムには反感を覚える。

 ただ、こと煎茶道に関しては、その文人趣味はわたしの好むところであるし、文人飾りや盛物という飾り物は興趣に富むと思っているので、その伝統が失われてほしくはない。それでも、強欲であからさまな集金システムになると、経済的に余裕のある者だけに許される遊びになってしまうようで残念なのである。それでは、遊芸が公家や武家に独占されていた時代に逆戻りではないかと思う。それを打破して庶民にも遊芸を普及させることに功があった家元制が、また門戸を狭める方向にしか動かないのであれば、やはりそれは本末転倒だと思うのである。