梅花三昧

二月二十六日(土)晴
朝から上野に向ひ九時半の開館とともに東京国立博物館に入り「仏教伝来の道」特別展を観る。平山郁夫が奈良薬師寺玄奘三蔵の足跡を描いた「大唐西域壁画」と平山が行つた文化財保護の活動に因む佛像や壁画を集めて展示したものである。
「大唐西域壁画」はさすがに圧巻であり、嘗て玄奘が学び今は廃墟となつたナーランダ寺を描く「ナーランダの月」は特に心に残る。月彼の地に在つて佛法の盛衰を明らかに照らすも釈尊の教へ東漸して今我が心を照らすと思へば、其の恩徳に図らずも袂を湿らす心地なり。
平成館を後にし本館に移動し、まずは二階特別室の中国書畫展にて墨梅の佳品を堪能。此の鑑賞が実は此の日の愉しみを増幅する基調になつたのである。古雅で端正な中国の墨絵の梅をまず見て、第七室に到つて抱玉の「紅白梅図屏風」を眺め、梅はないが蕪村の「蘭亭曲水図屏風」を堪能してから第八室で数々の梅の絵と出会つてわたしはすつかり嬉しくなつてしまつた。特に小品だが池大雅の白梅図扇面など、洒脱な筆致が中国趣味を完全に脱してをり、佛教の東漸と重ねて梅図の伝播変容の様を垣間見るやうで興味深いのである。
そして、場所を移して出光美術館にて「琳派芸術」展を観る。会期の後期に当たる今は光悦や宗達の作品は少なく、酒井抱一と其の弟子鈴木其一が中心だか、此処でもわたしは唸ることになる。実を言へばわたしは抱一については、名前を聞いたことがあり何枚かどこかで其の絵を見たことがあるくらゐで殆ど何も知らないで居た。生誕二百五十年といふことで幾つかの企画展が催されてゐることを偶々新聞で見つけ、其の時初めて抱一が琳派に属してゐることを知つたくらゐなのである。
ところが、抱一の「紅白梅図屏風」を前にしてわたしは絶句した。銀屏風といふもの自体をあまり見たことがないせゐもあるが、とにかく其の美しさに心を奪はれたのである。そして、此のやうな素晴らしい絵を描く人を今まで知らずにゐた不明を恥じるとともに、かうして出会へた幸運も感じないではゐられなかつた。後で図録を買つて見ると前期には伝光琳の「紅白梅図屏風」が出てゐて、金屏風の絢爛な中にも構図の抜群なセンスもまた確かに息をのむ美しさなのではあるが、其の実物を観ても光琳であるからには其れほど驚きはなかつたかも知れないからである。
抱一の月光下を思はせる銀地に浮かぶ紅白の梅の枝ぶりと花の姿にすつかり魅せられた。白梅の可憐は勿論だが、黒を多用した此れほど落着きと品のある紅梅をわたしは他に見たことがない。白梅と並ぶとだうしても品が悪くなりがちな、派手さを宿命として持つ紅梅を此処まで見事に描くとは。さうなることが分かつてゐるから敢て中国の文人たちは墨の一色で梅を描くことを好んだ筈なのだが、彼らに此の絵を見せたら何と言ふだらうかと思ふと楽しい。
しかも、梅だけではなかつた。雛飾りの屏風として描かれたといふ小さな「四季花鳥図屏風」の繊細な美しさ、「十二ヶ月花鳥図貼付屏風」に見る大胆でありながら品格のある色と構図…。其の力量の大きさを知るとともに、もしかすると応挙や円山派よりも、抱一の方がわたしの趣味に合つてゐるのかも知れないと感じ始めてゐた。其の思ひは抱一の弟子鈴木其一の諸作品を観ることでかなり強まつた。わたしは鈴木其一を発見したのである。
特に「桜楓図屏風」に完全に参つた。梅に比べると桜を描いた佳品は少ないが、此れは間違いなくわたしの中では松林桂月の「春宵花影」と並ぶ傑作のひとつである。花がすべて正面を向いてゐるから余計に美しいのだが、其の不自然さを構図の妙によつて少しも感じさせないのである。此れ以外にも鮮やかでありながらうるさくない色遣ひと、写実としても一流の筆致を堪能して出る。抱一の梅と其一の桜、この新しい発見にわたしは幸福な思ひで一杯であつた。