船と鳥−或いは花鳥風月舟車飛行機

七月十八日(月)陰
久しぶりに青空を見ない一日である。それなのに暑い。さうなるとわたしの機嫌は悪い。ずつと続いた快晴の夏の空のもとであれば、いくら暑くても何だか楽しくなつてゐたから、わたしは最近自分のお天気屋ぶりが怖いほどなのである。

気がつくと、手にしてゐるのは舟の形をしたものか、鳥をモチーフにした置物だつたりする。骨董市での話である。ぱつと目にして興味をもつものには、圧倒的に此のふたつの系統のものが多いことに最近気づいた。
乗り物は、男の子であつた頃から何でも好きだつた。車も電車も飛行機も、戦車もトラツクもロケツトも好きだつた。船にもずつと憧れてゐて、戦艦、空母艦、潜水艦、客船からボート、ヨツト、千石船に至るまで、熱い視線を向けて来た。普段あまり自分の写真を撮られるのを好まぬくせに、船の前に行くと写真を撮つて貰ひたくなつたものだ。
鳥の方も、何故かはわからぬが昔から好きなのである。嶺庵には、熊野で買つた三本脚の八咫のからすの小さな置物が舟形の水滴と一緒に窓枠に並んでゐて、それを見ると何となく気持ちが和む。空飛ぶものへの憧れとは、零戦や飛行機への憧れと通ずるものがあるのかも知れない。乗り物にせよ鳥にせよ、いずれも「移動」といふか、今居る場所から違ふ処へ移り行くことへの乾きにも似た願望が隠されてゐる気もする。それは旅とほぼ同義であり、万物流転や諸行無常の思ひとも通ずるのかも知れぬ。ただし、そうした流転の象徴を「置き物」として書斎や身辺に飾る心理的な源は何なのだらう。知りたくもあり、知るのが怖いやうでもある。