或る発見

七月二十八日(木)陰時々雨
梅雨のやうな鬱陶しい天気である。七時四十分出社。今日は残業無しの日とのことで、最近では珍しく定時で退社。帰宅後軽く尺八の稽古をし、夕食の後これまた久しぶりにジムに行く。此処十日ほど飲み食ひすることが続いて、腹廻りが気になり始めたので今日は殆ど有酸素系の運動で、計千キロカロリーほど消費。ジムに行つても体を作るといふより体形の維持が精一杯である。それ程筋肉でガチガチに固めたいとは思はないが、理想とする体形はあつて、さうなると何を着ても似合ふやうになる筈だから、近づかうといふ気持ちはある。もつとも、世の大方の同年代と違つて理想から遠ざかつてはゐないものの、中々辿り着けさうにないのも事実である。
わたしの場合仕事が忙しくなると何もかもが動き始めて著しく活動的になる傾向がある。暇な時は何もする気がなくなつて、心の中まで閑散とする。今はいろいろなことが動き始めてゐる。調子に乗り過ぎて何か壁にぶつかるまではこれが続くのであらう。
今日電車の中でふと、本を読まなくても良い生き方は出来るのだなと唐突に納得できた。本をまるで読まない訳ではない。ただ、最近は一時に比べると読めてゐないのだが、それでも充実はしてゐる。今まで、本を読むことが当たり前といふよりは、本を読まなくては良い生き方は出来ないと思ひ込んでゐたのかも知れない。良い本を読むのに越したことはないが、本を読んだからと言つて良い人生を送れるとは限らないのだ。そんな当たり前のことに、やつと気づいた気がする。
みどりさんが常に言つてゐたやうに、どんな事からも、どんな人からも学ぶところはあるのであり、その事の真意を攫み損ねてゐた自分の愚かさにやつと思ひ至つたわけだ。人と出会へばまつとうに付き合ひ、いろいろな話しをし、冗談を言ひ、笑ひ、酒を酌み交し、仕事をきちんとやつて、ちやんと食事をしたり、愛する人と過ごす時間を大切にすることこそが、良く生きることに他ならない。実に月並みな述懐だが、そんなこともわたしには理解できてゐなかつたのである。
良い生き方の中に本を読む楽しみや、本から得る感動や思索が含まれるのであつて、本を読むことの中に良い生き方が含まれる訳ではない…。そんなことも分からずに五十年生きて来たのだ。涙が出さうになる。もつと早くに気づいてゐれば、幸せにできた人もゐたのだ。本を捨て街に出やうとはこの事だつたのかも知れない。わたしはやつと、「人」を知る準備が出来たのである。