上からものを言ふ

五月十六日(水)
世上よく「上から目線」なる言ひ方を目にする。悪い意味に使はれることが多い。余はかうした使ひ方に不快を感じずにはをられない。余自身がさう言はれることが多いといふこともあるが、其れ以上に此のものの言ひ方の背後にある人々の考へ方に賛同しかねるものがあるからである。まず、周りの人たちと同じ高さに目線を揃へる事が、そんなに無條件に良いことなのであらうか。気配りや配慮とは質が異ならう。付和雷同とまでは言はないまでも、悪しき平等主義は思考の自由を抹殺しかねない。何故なら上から目線とは、相手と自分とを含んだ全体を俯瞰する姿勢であり、所謂メタ思考を意味することが多いと思はれるからである。ただ単に相手を見下すとか低く見るといふのではない。相手と自分を対等に見られる視点とは、両者を含む上からのものに他ならぬのではないか。能で云ふところの「離見の見」にも通ずる視座であり、此れを忘れて周囲の顔色ばかりを窺つて自己を客観視できないとすれば、其れは謙虚さとか気遣ひとは別物と考へるべきであらう。問題はむしろ、上から見られないことに存する。上から見ることをしないから、人が上から見ると不愉快に感じるものであらう。メタな視線を持ち得ぬ人とは話が出來ない、と此れは確かに上からものを言つてゐるのかも知れないが。