火山と盃洗、新居

十一月四日(月)陰後雨
九時半家人と家を出で鎌倉に向かふ。京浜東北線車中にて偶然M氏に会ふ。昨日横濱骨董ワールド會場のパシフイコ横濱にて遭遇したる際此の日倶に映畫に行くことは約せしが、電車やまして号車までは指定せざれば奇遇と言ふべし。鎌倉より徒歩川喜多映畫記念館に至る。十時半より映畫『新しき土』を観る。1937年公開、原節子主演である。獨逸人監督の目に映じた日本の自然や街並みの姿は其れこそ『風立ちぬ』に描かれたやうに美しいが、ストーリーや登場人物の言動は荒唐無稽で滑稽ですらある。其れでも原節子の清新な美しさと火山や山岳を写すキャメラワークの妙は特筆すべきものがある。滅多に上映される作品ではないし、余も勿論初めて観るものだが、十分堪能出來たやうに思ふ。原節子が婚礼衣装を手にして着物と草履で岩だらけの火山をすたすた登つて行くだけでも驚くのに、其れを追ひ駆ける小杉勇が靴を脱いで沼を泳ぎきつた挙句靴下のまま蒸気の吹き出る熱い火山の砂の上を血だらけになつて進み、岩をずんずん登つて行く様は、ストーリーの無意味さを補つて余りある迫力であり、山岳映畫の巨匠アーノルド・フアンクならではの映像の力である。滿州に對する日本の勝手な言ひ分が、獨逸の支持を得てゐるかのやうに語られたり、今の目で見れば突つ込みどころ滿載とは言へ、其れを措いても樂しめる作品であつた。
三人とも大滿足にて、シヨツプでは原節子に関する本を幾つか見つけて其れも買つて記念館を後にす。混雑する小町通りを避け壽福寺側を通つて驛に向かふ。途上の古書肆骨董の游古洞に立ち寄る。盃洗があつたので出して見せて貰ふ。絵柄は氣に入つたものの壱萬七仟圓とちと高く諦める。此れには、先日の淺草和装塾で伊織先生から盃台なるものの存在を教へられたところ、昨日訪れた横濱骨董市にてたまたま春慶塗の盃台を見つけて早速買つたといふ前段がある。盃台は仟伍百圓と格安だつたので買つたのだが、其の骨董市の入場券代りに渡された骨董の雑誌に盃洗のコレクターの記事があつた。余は初めて盃洗なるものの存在を知り、其の翌日に實物に出会つたので是も何かの縁かも知れぬと思ひ欲しくなつた訳だが、値段が盃台とは一桁違ふので斷念したといふ次第である。其れでも結局余は陶器の盃ひとつと有田は源右衛門の染付のお猪口、併せて仟伍百圓を購ふことになつた。案外かうした安物の骨董買ひも亦樂しいものである。
驛では丁度來た電車に飛び乘り大船で大船軒の鯵の押し寿司を買つて拙宅に戻つて三人で遅き午餐と為す。更に拙宅より車で、新築なつた山手のM氏邸に行く。西洋風の造作を随所に取り入れた瀟洒な、そして間取りにもゆとりのある贅沢な居宅である。M氏の蓄財の才や羨むべしであらう。山手の一等地に敷地も広く、建具や家具、調度品も氏の趣味を色濃く反映した拘りのものばかりにて、流石と言ふべき出來映えであらう。氏も頗るご滿悦の様子である。邸内を案内して貰ひ小一時間談笑の後辞して歸る。夜、盃台を用いて一献傾ける。