新元号に思ふ

 新しい元号が決まつたさうだ。令和といふらしい。笑ふべき無知蒙昧の國粋主義が生んだ、何とも言へぬ珍奇な代物である。元号といふもの、それに使はれる漢字、そして其の典拠となる古典を含め、すべて中華文明からの影響を免れる譯はないのに、國風を利かせた命名であるといふのが笑はせる。其処までいふなら何故やまとことばの元号にしないのか。「たつかぜ」とか「にぎのよ」でいけない理由は何なのだ。百歩讓つて「れいわ」を善しとして、せめて「礼和」の方が良かつたのではないか。礼、和ともひらがな「れ」と「わ」の元の字だから、やはらかな國ぶりに相応しい字體ではないか。命令される和よりも、礼を尽くした和であつて欲しいと思ふのは余だけではあるまい。其れが嫌ならきちんと中國の古典から採つた由緒正しき文言を用ゐるべきであつたらう。明治、大正にくらべ益々輕くなるのは仕方がないにしても、萬葉集からといふのが如何にも見識の低さを物語る。抑有識者として呼ばれた面々の名を聞けば、事ほど左様に全く以て御話にならない。愚鈍の宰相に釣り合つたお歷々と言つてしまへば其の通りであるが。

 但し、平成が世に出た時ほどの違和感を覚えないのは、要するに既視感や二度目の體驗といふ事情なのだらう。やがて此の令和にも馴染むのだらうと思へば、今まで以上に西曆至上主義にならうといふものだ。世の歓迎ムードといふのも理解し難いし、今後秋篠宮家に皇位が移る暗黒を思ふと、世も末といふ氣持ちになつて來る。れいわと讀んで隷禍と書く。國民は益々國家と資本家の奴隷となるといふ讀みである。