未来の生活

   ずっと昔の話、テレビ電話があったらどんなに便利で楽しいだろうと(多くの人が)思っていた。今や完全にそれが実現しているが、その間にもはや電話をする人がいなくなってしまった。もちろん、今でも電話をすることはあるし、遠いところに住む親子などがテレビ電話を使うことはあるだろう。しかし、あの頃は、ネットやメールがない中でのテレビ電話を想像していたのだから、今とはその意味や大きさがまるで違う。当時はSFの世界の出来事のように思えたのだが、テレビ会議やズームが日常化してみると、テレビ電話のすごさが霞んでしまったのだ。電話は遠隔地とのコミュニケーションツールとして、手紙→電報→電話と進化して来た最終形だったわけで、その延長線上に期待されていたテレビ電話の出現より早くに、電話に替わる手段が発達してしまったのである。今でも手紙が書かれているように、電話もなくならないだろうが、ネットの出現は人間のコミュニケーションのあり方を根本から変えてしまったし、情報や画像・映像のやりとりの手段や方法が次々と新しいものに変わっていく中で、実際には我々はその変化の大きさと意味をまだつかみかねてもいるのだろう。同じようなことがSF映画の中のコンピューターにも言える。当時のテクノロジーの常識から、高度な情報処理を必要とする宇宙船の中のコンピューターはそのため巨大な装置として描かれているが、その時の想像をはるかに超えて何もかもが小型化してしまったために、数多くのランプが点灯し、たくさんのアナログのメーターが作動する「マシーン」は滑稽なものになってしまったのである。おそらく、今i-phoneひとつで出来ることを、それぞれ専用の機械を使っていたら、六畳一間くらいは確実に占領してしまうのではないかと思う。最近の若い人が、狭くても都心に近いところに住みたがるのも、要するに身軽だからではないかと思う。本の山、ステレオ、レコード(!)、カメラ、テレビ、アルバム、おそらく机などもなしで済ませる生活ができるのであれば、確かにその方が楽であろう。夢見ていた技術を手にしてみると、生活の風景そのものが一変していて、それがおそらく「思っていたのと何か違う」と感じる違和感のひとつの原因ではないかと思うのである。