中二病

 この言葉が広く知られるようになって久しい。その特徴や実例を読むと今の自分にもあてはまることが少なくなくて苦笑を禁じ得ないが、振り返れば確かに中一の秋ぐらいからから中二の終わりまでは、大人ぶって背伸びしているくせに驚くべき無知さをさらけ出す、あらゆる意味で子どもでも大人でも、思春期とさえ言えないような年代であり、奇妙な妄想と馬鹿馬鹿しい程の心情の揺れとの混合物だったことがよくわかる。今でもその頃のエピソードとして覚えているのは、山口百恵の膣痙攣事件である。当時人気の絶頂だった百恵が、つき合っていると噂のあった三浦友和と性行為の最中に膣痙攣を起こし、抜けなくなって合体した姿のまま救急車で運ばれた、という話がまことしやかに伝えられ、多くの中二坊はそれを信じた。何せセックスの何たるかのイメージがやっと掴め始めたものの実態は勿論雲をつかむような霧の中だから妄想だけは確実に膨らむ。また、女性器への興味は異様に大きなものとなり、見てみたくてたまらずに悶々とする。何といっても「性器」という言葉を辞書で見つけただけで興奮できるお年頃である。小学生の頃妹と風呂に入っていたり、プールの授業の前の着替えの際にポロッとタオルが落ちた同級生の陰部は見ていたりしていたはずなのに、どうしても仔細が思い出せずに自分は記憶力が悪いのではないかと思い、大学に行けないのではないかと真剣に思い悩む程の馬鹿さ加減である。しかも、友達の中にはそのモノを見た者もいて、そのグロさを言い立てたりするから、怖いもの見たさの欲望も加わっていた。そんな中二坊にとって「膣」も「痙攣」もそれだけで興奮する言葉なのに、それが重なっているのだから妄想ははち切れんばかりに膨らむのだ。そこにはかわいい百恵ちゃんを我がものにした憎き友和への恨みつらみもあり、いい気味という気分も混じっていただろうし、何より女性器および女性に対する潜在的な恐怖を、もはや潜在的とは言えないまでに明らかに示してしまっている。性に対する生半可な知識が、目覚め始めたおのれの性欲や色気づいた自分の心情とうまく折り合いがつかず、滑稽でうら悲しい妄想が日々頭の中を占領している状態である。

 この膣痙攣事件が、本当にあったことなのかどうかは知らない。そうそう起こることとも思われないが、実際にあるにはあるようである。ただ、このニュース(?)に対する反応そのものが、まったく中二病らしいものだったことを、最近ふとしたことから思い出したまでである。今となっては、性器どころか女性の裸に対しても興味を持てなくなっている。それはそれで、やや寂しい気もしないではないが、勉強の邪魔にならないから好ましい限りである。今自分が中二なら、このままの調子で一生懸命勉強すれば東大に入れたかも知れないと残念に思う次第である。あれ、これも中二病的な妄想に過ぎないか。