嫌悪と麻痺  

 

 アメリカという国に対して多くの国の人々が複雑な感情を持っていただろうと思う。憧れや敬意と同時に嫌なもの、嘘くさく空しいものを感じてもいたのではないかと思うのである。しかし、この四年でまったくの嫌悪と軽蔑に変わってしまったように思われる。あれほどまでに気違いじみて品のない人間を大統領に選び、さらに人を人とも思わぬ傍若無人で言語道断な政策を四年続けた後の今になってなおトランプに投票する人がいるという事実に、あの国の人たちと価値観を共有することはないのではないかという気がしている。もちろん、反トランプの人々の方が多数派なのだろうが、それでも今回の大統領選でなお赤い色になった中西部の諸州に対しては、行くことはないにしても恐ろしさと嫌悪しか覚えない。かつて品のない大統領だと感じたブッシュ息子が今となっては上品に思われるほどである。どう考えても史上最も下品な大統領であろう。

 翻って日本を見ても、暗澹たる気分は少しも晴れはしない。誰かが言っていたが、確かに特高警察の目つきをした総理大臣を抱くこの国においても、政府のつく嘘八百と権力の無法な乱用に対してすっかり感覚が麻痺しているのか、怒りさえ湧き起らなくなっている。コロナ感染者の数が驚くほど増えていても、まったくの無策を決め込む政府に対し、無力感からかマスコミの批判すら弱い。自粛期間中の方がよほど多角的な批判をしていたように思われるマスコミが、今までで最悪の事態となっているのに、もはや放任している感がある。今となっては、騒いでいた頃の感染者の少なさを改めて知って、緊急事態宣言下の日々は一体何だったのかという思いで、ものごとの判断の軸が麻痺しているような塩梅である。

 一方、わたしはひとりの横浜市民として、カジノの招致は何としても阻止したいが、招致反対派の横浜のドンの時代錯誤な発言に対して容認したい気になっており、待て待てそれは自分のことばかり考えてトランプに投票する、愚かなアメリカ人と同じことになるのではないかと複雑な気分にもなるのである。