虚栄の市

 先日、会社を辞めた若い女性とランチをする機会があった。3月に退社してすぐコロナとなり、転職活動もままならなかったらしいが、やっと就職先も決まったのでお祝いのランチである。

 その時、やはり新しい職場で未知の人の中に入ることへの不安を彼女は口にした。当然の話である。わたしは見知らぬ人と出会うことの緊張や期待がなくなると、人間老けるし惚けやすくなるらしいということを話した。だからそういう機会を持ち続けることはいいことだよと言いたかったわけだが、その一方で、会社が変わって初めて人に会うときなどはありのままの自分でいるよりは、どうしてもそうありたい自分を演じてしまいがちになり、背伸びした姿を見せることが多く、それこそが「化けの皮が剥がれる」ことの原因になるものだねというような話をした。ついつい普段の自分よりよく見せようとして背伸びをしたり気取ったりするのはある程度人間のサガとして仕方のないものであろう。しかし、そういうことをのべつしている人をわたしは嫌う。

 念頭にあるのはブログやインスタなどでハッピーライフ、セレブのような華やかな生活を「さりげなく」ひけらかしている人たちである。本当のセレブでもないのに、自分がどれだけ充実して楽しい日々を過ごしているかを自慢している人たちほど痛ましいものはない。お洒落なカフェでランチしていたら友達に会いました、誕生日パーティにこんなに素敵な心のこもったプレゼントをもらいました、沖縄でヨガのワークショップに参加しました…などといった例のやつである。こうした類の自己顕示で笑えるのは、同類相哀れむではないが、お互い褒めたり羨ましがったり称賛したり「優しい」コメントを残したりする「お仲間」が必ず一定数いることである。決して本心から「素敵」とか「羨ましい」と思っているわけではなく、むしろ陰で哂っているのではないかとも思うのだが、そうしたお仲間の中で競って「素敵でセレブでリッチでハッピーな」生活を恥ずかしげもなく綴る(というほどの文章力はもちろんないので、多くは写真のアップ)のである。その一生懸命さが痛々しいことこの上ない。

 なぜそう思うかというと、義妹がそれをやっていて、その実態を知っているからである。義妹はモデルや女優のようなことをしているらしいが、もちろんそれで食べていけるわけではなく、単に自分の好きなことをやって小遣い程度を稼いでいるに過ぎない。それなのに、ブログやインスタではセレブ気取りで素敵な毎日を送っていることを報告している(らしい)。ところが、実際には劇団のワークショップに参加費を払って参加しては下手な演技を怒られまくり、単身赴任の旦那は会社の状況も悪くて鬱病となり、親族に見せる姿は質素というより地味で貧乏くさい…ということをよく知っているから、その背伸びの無理さ加減が痛々しいのである。それで、そういうハッピーライフを報告しまくる「一般人」にはどうしても疑りの眼を向けてしまうということになる。

 義妹のブログやインスタを自分では見ていないし、ほかの人のブログもよく見ているわけではない。たまたま目にしたもので判断しているから偏りはあろうが、世の中のブログなどの大多数はこんなものではないかと思っている。要するに、実際の自分に目を晦まし、ありたい自分をそうであるかのように思いなして、それを他者に承認して貰うことで、そうなのだと信じたいだけなのである。

 かく言うわたしのブログがそうである。敗者といい、老いを託(かこ)ち、気力の衰えを嘆き、失敗の人生だったと悲観すること数限りないが、実際はそれほど悲観的でも、悲しみと絶望に押しつぶされているわけでも、老いさらばえてさえいない。自虐的ではあるが、それほど惨めな日々を送っているわけでもない。ある意味悲惨さを「盛って」いるだけなのである。わたしの場合虚栄心の方向が普通と反対なだけで、ブログが「虚栄の市」になっているのは他の多くのブログと同じことなのである。そして、この方向での虚栄は偽悪であり自己韜晦であり、これは私小説や近代日本文学の伝統に沿ったものとも言える。そう考えると、今のセレブ気取りブログの文学的源流は田中康夫の「何となくクリスタル」に求められるかも知れない…と思えば余計に、そんなブログを読むことの馬鹿馬鹿しさを痛感するのである。