珈琲一杯

屋上のテラスのやうな席でわたしはひとりで珈琲を飲んでゐる。夢の中の話である。眼下には深緑色のお堀の水が見えるのだが、角度のせいか直接水面だけ目に入るので、そこまでどれくらい距離があるのかよくわからない。それにしても波が立ちすぎてゐて何だか穏やかならぬ雰囲気である。
わたしは腕時計を見てそろそろ時間だと思ひ、店に入つて会計を頼む。三十過ぎの女性店員が、承知しましたと言つて走つてわたしの居たテーブルから伝票を持つて来る。ああ、そつちでしたか、すみませんとわたし。彼女は伝票を手に「八百七十円です」といふ。わたしはすぐ隣に居た二人組の席の伝票と間違へたのではないかと思ひ、「珈琲一杯ですけど?」と言ふが、「はい」との答へ。「珈琲一杯八百七十円もするのですか」「はい、戴いてをります」…。
わたしは千円札を出しおつりを貰ひながら、「ドトールはどこも同じ値段だと思つてました。違ふんですね」と言ふ。「ええ」と彼女。わたしは笑顔で、「今度から入るとき気をつけなくてはいけないな」と独り言のやうに言ひ、彼女もにこやかに頷く。
それだけの夢なのだが、わたしは妙に嬉しかつた。八百七十円の珈琲は確かに高い。だが、それで不愉快になつたり、或いは高いと思ふことで貧乏くさく思はれるのではないかと自意識過剰になるばかりに、かへつてわざと平気を装つて何気なく払ふ素振りを見せるといふのでもなく、思つたことを口にしつつ、相手にも嫌な気持ちをさせず、「普通に」短い会話を成し遂げ得たことに満足を覚えるのである。
現実には今までわたしは、店員とか駅員とか通りがかりの人などに対して、不機嫌や不愉快や無関心や、場合によつては蔑視や敵意を隠さうともせず、自分の感情のままの表情をしてぶつきら棒な発話をしてきたやうに思ふ。相手が自分のことを好きでもないし好意も持つてゐず、敬意を払はないどころか軽蔑してゐるかも知れないと感じて、身を固くしてしまふやうなところがあつたのである。
最近になつてようやく、さうした見ず知らずの行き擦りの人たちと言葉を交わすやうな場面でも、変な意識をせずにこやかな会話ができるやうになつたと思ふ。情けない話だが、五十を前にしてやつと、買物に出たときなどでもとにかく相手に嫌な気持ちをさせたくないといふ思ひが働くやうになつたのである。
特別なことを話すわけではない。こちらがにこやかに拒絶や敵意を微塵も見せずに対応すれば、例へ結局ものを買はなくても、サービス業の彼ら彼女らはましてやにこやかにゐてくれるのである。買物や人に何かの問ひ合わせをするときなど、かうしてにこやかに笑顔や笑ひ、ときに冗談を交えて接し、相手に嫌な印象を与へずにやりとりが終へられると、わたしは内心で「やつた」と思ふ。別に好かれやうとか言ふのではなく、人を嫌な気にさせないやうに気を遣ふといふことの大切さがやつと理解できるやうになり、そしてそれが少しは出来るやうになつたのが嬉しいのである。