百日紅

八月五日(金)晴時々通り雨
今朝駅に向ふ途上、いたち川沿ひにある百日紅の木に花が咲いてゐるのに気づく。さうしたら至るところに百日紅があると言ふくらい目につくやうになつた。特に、大船から藤沢の間にある、タケダ薬品の大きな建物の前の道には街路樹として百日紅が並木になつてゐることを、今朝電車の中から見て初めて知つた。
真夏に咲くこの花をわたしは嫌ひではない。濃いピンク色の花は一見派手さうに見えて真夏の陽光の下ではむしろ地味と言つていいくらゐだし、花のつき方も雑な感じで繊細さには欠けるのだが、朝顔のやうな涼しげな感じがない分だけ、かえつて夏の彩りとして悪くない。
百日紅の花を眺めてゐると、わたしは何故だか、子を育て食べさせるために働きづめだつた中年の女が、ふだん化粧もままならぬのに何かの席に呼ばれるなどして、色気ではなくせめてもの身だしなみとして紅を引いた姿を思ひ浮かべる。そして、明るい夏の光に照らされて自らの場違ひさに恥じてゐるやうな風情を感ずるのである。しつとりとした艶つぽさとは無縁で、けばけばしくどこかぱさぱさと乾いた印象のある花の姿のせゐなのか、けなげさとともに生活に疲れた女を見るが如き一抹の淋しさをも感じさせてくれるのだ。向日葵のやうな花とは全く趣きを異にする。さう考へてみると、夏の暑い盛りにもさまざまな花が咲いてゐることに改めて気づかされる。春や秋とは別もののそれらの花が、わたしは愛おしいのかも知れない。