倫敦軍縮会議−如道会設立年に関する続報

三月十二日(月)晴
佐藤尚武著『回顧八十年』を図書館から借りて来た。ざつと目を通したところ如道会についての言及はなく、僅かに若い頃から尺八を好んだがたいして上達もしなかつた云々を見出したのみである。ところで、巻末の年表を見た上で改めて如道叢書を読み直してみると、前回書いた余の解釈にそもそも誤解が存することが分かつた。如道会設立の契機となつたのが、丸の内中央亭で開かれた当の佐藤尚武による講演会であつたことは如道叢書に見えるが、余が其の文面から講演会のあつた年を昭和五年だと理解したのだが、年表からすると昭和四年のことであつたらしい。如道叢書にも倫敦海軍軍縮会議の約一ヶ月前に帰国した佐藤尚武氏の国際連盟を巡る時局講演会に呼ばれて尺八を吹いたとあり、軍縮会議が開かれたのが昭和五年一月二十一日であり、佐藤の帰国が昭和四年十一月十一日、会議に向けての出発が同年十一月二十六日であるから、講演会は昭和四年の十一月中旬から後半にかけてのことだつたと推測できる。それを踏まへ、「日比谷公園音楽堂の十年修行」が昭和四年スタートとすれば、数へで十年の昭和十三年如道会設立に矛盾はなくなる。ただし、それでも完全に解決された訳ではない。如道叢書によれば、此の佐藤の講演会後の懇親会の席で知り合つた宇野要三郎といふ裁判官が、如道の希望を汲んで司法警察関連に働きかけた結果、日比谷公園音楽堂での毎週土曜の演奏が許可されたといふことであるから、十一月中旬以降の僅か一ヶ月半程の間にとんとん拍子に事が運んだとは考へにくい。勿論断言は出来ないが、昭和四年の年末に話が進んだとしても、実際に音楽堂で吹き始めるのは昭和五年とする方が自然ではないだらうか。さうなると昭和十三年ではどう数へてみても、十年の修行を終へて、とは言ひ難いのである。
ちなみに佐藤尚武は外交官から戦後政治家に転じた人で、戦前短期間ではあるが外務大臣を務めた他ベルギー、フランス、ソビエト大使を歴任。戦後は参議院議長も務めた。父親が津軽藩士で、同じく津軽藩士から外交官に転じた佐藤愛麿の養子となつた。津軽藩や青森弘前の縁もあつて、如道師が其の講演会に呼ばれたものであらうか。其の時まで如道師と面識はなかつたやうだが、其の後既に述べた通り如道会設立に際して理事として名を連ね、如道師没後の昭和四十年代まで如道会例会などにも顔を出してゐたことが如道会報などから窺はれる。其の逝去に際しては如正先生も哀悼の言葉を如道会報に載せてゐる。昭和史の外交の中心にゐた人物であり、回顧録を見ると当時としては極めて国際感覚やバランス感に優れた思想と洞察力を持つた人だつたと思はれる。祖国の繁栄と国益、そのためにも必要な世界平和を祈念し続けた外交官であり、如道会理事に実に相応しい方だつたのだらうと、如道会の遙か後輩として末席を汚す身にはただ崇敬の念を抱く已である。
ところで其の佐藤尚武氏の昭和十三年と十四年の状況を見てみると、昭和十二年三月に帰国して以来同十五年春に特命全権大使を拝命して出国するまで、氏の経歴の中では珍しく長期に渡つて日本に滞在してゐる。しかも、十二年に三月から三カ月外務大臣を務め、近衛内閣成立とともに辞した後は、十三年の九月からの約一ヶ月外務省外交顧問を務めた以外公務から遠ざかつたゐた。とは言へ十二年七月に起つた盧溝橋事件は在野とは言へ外交一筋に生きた氏の深く憂慮するところであり、回顧録からも、其の後に日中間の紛争が泥沼に入り込むことを阻止すべく当時様々な形で働きかけをされてゐたことは読み取れる。しかし如何せん公職を離れた身であり、此の重大な時期において氏の見解や所論を国政に反映し得なかつたことを「終生の恨事とする」とまで回顧録の中で述べてゐる。如道会創設とは正にさうした緊迫した時局の最中の出来事であつたことを、我々もよく認識せねばならぬと思ふ。そんな中、佐藤氏としては公務にある頃に比ぶれば、昭和十三、十四のどちらの年であつても、如道会創設の理事として比較的時間を費やすことができたのではないかと推察し得る。その胸中に去来してゐたものは想像すべくもないのであるが。