ソ連といふ恐怖国家

七月二十日(金)陰後雨
V.A.アルハンゲリスキー著瀧澤一郎訳『プリンス近衞殺人事件』讀了。此れはタイトルから想像されるやうなミステリーではなく、近衞文麿の嫡子であつた近衞文隆がソ連により不当に逮捕監禁され、戦後十一年に亘つて拘留された挙句に帰國直前に殺されるといふ悲劇を追ひながら、スターリン以下のソ連の権力者やソ連といふ国家や共産黨の非人道性と、余りにも悲惨な犯罪の数々を告発した本である。著者はイズベスチヤなどに執筆した作家・ジヤーナリストであるが、旧ソ連の最暗部に切り込む勇気と其の許されざる蛮行への怒り、そして戦後洋洋たる人生が待ち受けてゐた筈の文隆の悲運に寄せる同情と敬意に、余は心を動かされた。ヒツトラーと並ぶ二十世紀最悪の殺人者スターリンに對する怒りと憎しみを抱き、さうであればこそユダヤ人のヒツトラーやナチスに對する怒りや、理不尽に大日本帝國陸軍に親族を蹂躙された中國人の憤りも想像の範囲として理解出來るやうになる。
文隆に限らずシベリア抑留による日本人犠牲者の実数の把握への、そして起こつた事を記憶に留める為の努力が、余りにも其の後の日本人に欠如して來た事にも驚きと怒りを禁じ得ない。戦争の引き起こしたあらゆる悲惨な死に方や堪へ難い不幸の中でも、日本がポツダム宣言受諾後に不法な戦闘行為を止めずに捕虜と領土を掠め取つたソ連軍に、たまたま其の地域に居たといふだけで、他の國では考へられぬほど長期に亘つて抑留使役された上に殺された日本人程、何重にも理不尽さを感じさせる存在は少ない。敗戦國側である為戦後間もない頃であれば大きな声で抗議する事も叶はず忍ぶより他はなかつたとしても、だからといつてソ連の犯した余りにも非人道的で血のかけらも感じさせない極悪非道の行ひを、忘れる事も許す事も、到底出來るものではない。此の気持ちがあればこそ、中國や韓國の反日感情の、すべてではないにせよ一端は理解可能なものとなる。寒さと飢えと疲労と病苦にシベリアで朽ち果てた同胞の悲運と無念さを思へば、怒りに震へぬ者はないであらう。戦後の左翼系ジヤーナリズムがソ連の姦計にまんまと嵌つて真実を伝へなかつてせゐなのかどうかは知らぬが、余も含めた一般の日本人は戦後のソ連が我々日本人に對してしでかしたとんでもない犯罪の数々をきちんと認識してゐないのではないか。日ソ不可侵条約を破つて終戦間際に攻めて來ただけではなく、もつと何倍もの酷い事をやつたのがソ連なのである。体制が少しは変はつたとは言へ、國家として現存する露西亜に謝罪と真相の究明を要求する事は、北朝鮮に拉致についての謝罪と究明を要求するのと違ひのない正当な行動ではないか。プーチンがもし当時のソ連と今の露西亜は権力の在り方が違ふのだから謝罪するつもりはないと言つたらどう思ふであらうか。ふざけるなと憤ると同時に、恥ずかしくも日本といふ國家が侵略戦争で迷惑をかけたアジアの國々に對する態度と同じである事に気づかざるを得ないであらう。さうした二重の意味で、深く考へさせられる一冊であつた。
余の関心は近衞文隆の一生にあつたのだが、文隆や文麿を殺した時代、我々の今生きてゐる時代に直接繋がつてゐる昭和初期から敗戦までの時代に對する興味は増すばかりである。興味といふより、知つたつもりでゐた其の時代について自分が如何に無知であるかに気づかされて、喉の渇きを感ずるやうに其の時代について書かれた本を欲してゐるといふ方が正確であらう。明日から今日届いたばかりの『敗戦前後‐昭和天皇と五人の指導者』を讀み始めるつもりである。