氏神氏子

二月十日(月)陰
いつもの時間に家を出るが空いてゐたので一本早い電車で出勤。晝休みに下御霊神社に電話をして問ひ合はせる。即ち同社の氏子地域を知りたかつたのである。すると、西は堀川通りまで南は二条通り、北は出水通り、東は何と鴨川を越えて仁王門通りから川端二条辺りまでだとの答へ。意外に広い地域である。すぐ裏手の、甲斐荘家のあつた西革堂町は勿論氏子に入る地域である。思ひの他広いので地図で確かめてみると、確かにこの地域に神社は少ない。御所御苑の南西端には宗像神社や厳島神社はあるが御所内に住む有力貴族が勧請したものなのか、貴族の庇護の他に氏子といふやうなものはないのかも知れない。寺町通り沿ひだから寺は多いのだが、他に近い神社となると烏丸通り沿ひで出水よりちよつと北に護王神社、東は平安神宮と、神社の多い印象の京都の中でも真空地帯のやうな地域である。
それにしても甲斐荘家の旧居が、私が京都の中でも好きでよく行く区域というのも嬉しい。寺町通りの三条から北は書道、古書、骨董、竹細工等のお気に入りの店が多いし、夷川通りの家具屋や瀬戸物屋もよく行く。東にある旧京都舎密局で銅駝小学校のあつた辺りも昨年行つたばかりだし、木屋町通りは尊敬する佐久間象山先生遭難の地でもある。甲斐庄楠音は銅駝小学校の出身だといふ。京大にも歩いて行ける距離だから楠香は通學の際荒神橋を渡つてゐたかも知れぬ。先年まで高砂に勤めてゐた旧宮家出身の宇治家も荒神橋の近くにあつたといふのも何かしら縁を感じる。ちなみに楠香・楠音兄弟の母勝も、御所の東で下御霊からも近い西三本木通りの生れで、父は御所に勤める侍だつたといふ。ちなみに楠香、楠音の通つた府立一中も現在の京都府庁の北側にあつたといふから、實に小さな区域での生活といふべきであらう。