かへしふみなし

七月十一日(金)晴
或る大學にて准教授を勤め給ふ濱崎某といふ御仁に香木の銘につき教へを乞はむとて禮を尽したる文を送りしところ、何とても音沙汰かへりふみもなく過ぎぬ。嘗て同じく香りにつき鹿島某なる教授に文遣りたることありしが、同じく反古にして捨てつらむ、返事だになし。世の大學教授なるものの、無名の市井ひとに對する態度おおかた此の類ならんか。いとうたてき事なり。たまたま、かの人の松殿山荘流の茶に関ることを知りて、さこそと思ひ合することありければ、かく書きて送る。

或るひとの文を一日千秋の思ひにて待ち居たるを一向に來ずして、その人の松殿山荘の茶儀に親しむなると聞きて詠める。

待つほどに思ひ知られぬ宇治のやま ひろまにせまき心ばせ加奈

また、

松殿(まつどの)は宇治のみささぎ近くにて 地下(ぢげ)をみおろす高き谷より

山荘流なる茶儀は高谷宗範の始めたるものにて、小間の茶を嫌ひ東山時代の広間書院の茶に囘歸せんとて威儀荘厳、威容壮麗を誇る流儀なればにや、地下の者をば輕んずるらめと思ひて詠めるなり。嘗て東都の數寄者箒庵と宗範の間に茶事の在り方につき争論ある由も聞き、余は斷然箒庵派なれば抑々仇敵同士なりたるを知れば、会ひもせぬ先に訣別を決意す。高谷宗範は茶道に過剰に精神主義や倫理観を持ち込み、フアシズム茶道とも言ふべき流儀也。かの准教授も同じ傾向あらんか。
松殿は宇治木幡の地にあり、関白藤原基房殿が營み給ひし別業の跡なりといふ。藤原北家墓所なりし地に近く、また北家より出たる皇妃の陵にも近ければかく言ふなり。