最終講義

二月二十五日(土)晴
1 中大附属高校に着いたのはちょうど一時であった。もっと早くに着くつもりが差し障りがあって遅くなったのである。急いで会場に入ろうとするが場所がわからずきょろきょろしていると、ちょうど増田先生が通りかかったのでついて行くことにした。校内は文化祭のようで賑やかである。中庭の舞台では何かの事件をめぐっての集会のようなものが開かれている。増田先生はその中に入って行ってマイクを取り、盛んにアジ演説を行う。私はハラハラして見ているが、いつの間にか話しているのは橋本先生になり、皆がその話にしんみりとなる。一方の増田先生はそばに停めてあった車に乗って暴走を始める。人混みをすり抜けその先に停めてあった車にぶつけながらも走り去る。最初はベンツかと思ったが後姿はフォルクスワーゲンだったので少し安心する。何かの趣向だろうと思っていると、皆が移動し始めたので私も従う。ホールへの階段を昇り始めると会社のかれんがいる。聞けば増田先生の大ファンなのだという。私は、そうなんだ、増田先生とは40年前からのつきあいだよと言う。かれんはスポーツ刈りのような短髪にしているが、それがとてもよく似合っていて可愛いい。会場に入ると隅に一段高い舞台のある畳敷きの広間で、始まる間に皆で列車に乗ることになる。いくつもの噴水が氷柱となって連なる原野や、深い渓谷を望む絶景の橋を通って行く。隣に座っていたかれんは、自分たちと反対側の席の車窓の方が景色がいいと言う。私はそんなことないよと軽く手を触れると、かれんは「最愛の人だから嬉しい」と言うので私も手を握ったままでいる。それから皆で会場に戻ると二十人くらいが座れる席があり、様々な容器が置いてあって皆がそれぞれ蓋を開けて匂いを嗅いでいる。私はすぐに、コントロールとセットで比較しなければ意味がないと言うが誰も聞かない。そうこうしているうちに最終講義の前説なのか岡町が喋り出し、私は初めて岡町も調香師であったことに気づく。やがて増田先生の最終講義の上演が始まる。それは素人の役者を使った、ストーリーのないはちゃめちゃな映画で、私は増田さんがやりたかったのはこういうことだったのかと納得する。そして、その場にいたかれんに、「君は現実世界の存在ではないね」と言う。すでに髪が長いことに気づいたのである。ちいさく頷くかれんに私は「現実のかれんに、あの髪型が似合っていたと教えてあげることにするよ」と言って最終講義を後にするのであった。
2. 十時より一如庵にて尺八稽古。その後早稲田から中野、そこから中央線で武蔵小金井に行く。三鷹以西も高架線になっているのに驚く。武蔵小金井もすっかりモダンになっている。初めてこの駅に立ったのはちょうど四十年前の今頃、受験の折だった。駅前の中華でレバニラ炒めを食し、徒歩中大附属高校に赴く。正門を抜けレンガ色の一号館なる建物に入る。高校というよりは大学の校舎のようだ。光に満ちて明るく、女子生徒のいる校内は、四十年前とは全く別の場所のようだ。男子校から共学になったのである。私は高校時代にすでに、自分のすぐ下の学年から共学になるという悪夢を何度か見ている。その悔しい気持ちは今はないが、それでも母校という感覚を若干失わせている感じはある。エレベーターで七階に登り、多目的ホールに入ると古谷がすでにいただけで、増田先生本人を除けば人はいない。挨拶をするが、少しだけ心配になる。せっかくの最終講義だというのに、人が集まらなかったら淋しい話だからである。開始の一時直前になってだいぶ入って来たが、それでも二十人くらいである。一時から講義が始まった。私は前から三列目に座ったが、それより前には誰もいない。講義は「崇高の政治経済学を求めて」と題され、水野和夫の利子率革命をベースに、トマ・ピケティやマルクスやクラウジウス、アインシュタインハイデガーを縦横に語って、現在の世界が直面している危機を明らかにしながら、崇高さへの志向を示唆するという離れ業であった。一時間半を一気に語り抜け、四十年の教員生活を締めくくった。そう、増田師は私の高校入学と同時に教師となったのである。以後文芸部顧問として、そして卒業後は彼誰同人として親しくして来た恩師なのである。高校としては異例の最終講義に駆けつけた所以である。そして、終わってみれば会場は現役学生、卒業生、教員で埋まり、大盛況であったことが知れた。花束や記念品を渡す生徒や卒業生もいて、増田師の人徳を思わせる。担任教師の結婚祝いに手錠と鞭、蝋燭を贈った我々の世代とは全く別の人種と言っていいだろう。当時より偏差値も高いが品位も遥かに高くなったのであり、増田師がそうした環境の中で教員生活を全うできたことは喜ばしい限りである。記念集合写真を撮った後、私は橋本、古谷の彼誰同人と母校を後にした。駅前の昔からあるクラウンという喫茶店に入り三人で談話。畏友橋本氏の博覧強記と興味の範囲の広さ、そして世界各国を廻っている行動力にあらためて舌を巻く。その後古谷氏去り、橋本氏とは食事をしてから古本屋に行くというので荻窪まで同道。ツルゲーネフとプーシュキンの話をする。九時過ぎ帰宅。橋本氏に教えて貰った和田春樹のロシア史の本を早速註文する。楽しい一日であった。