大きなことば

 そのことばの意味や概念、あるいは文化によるコノテーションの違いや思想史的な位置などに興味を持って読んだり調べたりしていくうちに、その拡がりの奥深さにたじろいで探究を断念してしまうことがしばしばある。わたしにとっては「鏡」や「自然」、そして最近では「装飾」があてはまる。要は自分が無知というだけかも知れないが、そのことばから開けていく世界があまりに巨大で、とてもどこにも辿り着けない気がしてくるのである。

 「自然」ということばをわれわれは普段当たり前のように使っていて、その意味を不明確なものとも、訳の分からないものとも思っていない。まあ、多少哲学や思想に触れている者なら、西洋と東洋で端的な違いを見せる「自然観」を軸に、自然について知ることは決して自然ななことではないなどと嘯くくらいはするだろう。しかし、同じ日本人であれ、自明のものと思っている自然なものが、実はまったく自然ではないことにはなかなか気づかない。

 たとえば、青々とした水田の広がる農作地帯に出かけて行って、「やっぱり自然はいいなあ。俺もこんな大自然の中で暮らしたい」などと言ったとしたら、これはまったく狂人の戯言に等しいのである。耕作地たる田んぼや畑ほど、自然から遠いものはない。それは、人間の都合である農作物栽培目的に自然を徹底的に改変した姿にほかならないからである。言ってみればダムを見て「自然はいい」と言っているのと同じということになる。自然と思っているものが、実は人工の手が大幅に入り込んだ結果に過ぎないのである。そうすると、本物の自然とは何か、その本物の自然を軸したとき、われわれが普段使っている「自然主義」とか「自然に」などということば遣いはどう意味を変容させるのかという、連鎖的な疑問の山が生まれ出る。その結果、自然とは一体何なのか、まるで分からなくなって途方に暮れることになるのである。

 今わたしは、何気なく興味を持った磁気の香水瓶のかたちや文様をきっかけに、西洋の装飾美術、特にグロテスクやアラベスク、ロカイユといった用語の概念や歴史を調べている。それが、今までわたしが大文字のアートの中で装飾美術を軽く見ていた結果でもあるのだが、その奥深さとわかりにくさにたじろぎ始めてもいるのである。要するに、香りや鏡と同様に、文様や装飾は人類が有史以来つきあって来たものなのであり、その歴史の深さと、各地の始原的な文様が世界に与えた影響やその相互関係の複雑さは、そう簡単に理解できるものではないということが分かったということである。簡単なガイドブック一冊読んで把握できるようなものではなかったのである。今はシャステルの『グロテスクの系譜』と鶴岡真弓の『装飾の神話学』を読んでいるが、その後ゴンブリッチ『装飾芸術論』および『リーグル美術様式論』に進む予定である。知らないことを知るのを勉強というのであれば、勉強していることになる。勉強は楽しいのである。