純粋讀書

 カレル・チャペックの『未來からの手紙』を讀んでゐる。小説ではなくエッセイの部類に入るのだらうが、とても面白い。優れた知性と時代への透徹した分析力、そしてユーモアが混合された文章はただただ面白く讀める。というより、面白いから讀んでゐるのである。思へばこれが最近では久しぶりのことなのである。ほかでもない、最近は何かのための讀書が多い。参照として、立論の助けとして、あるいは新たな知識や情報を得る「ため」の讀書である。書くための讀書と言ひ換へてもいい。匂ひや香り、或は香料産業の歴史、幕末から敗戦に至る時期の文献や論文が讀むものの大半を占め、たまに小説を讀むことがあつてもそれらに關聯したものなのである。

 さうした場合、これから書かうとするテエマに必要か否かといふ観點で讀む。歴史系でも思想系でも、史資料でもそれは同じである。匂ひや香りといつた自分の専門分野については特に批判的な讀み方となり、自分が知らなかつた事や目新しい議論にのみ目が行き、他は批判的に切り捨てる事になる。

 昔はかうではなかつた。ニーチェシオランもミショーもドストエフスキーも、鷗外も荷風紫式部も、すべては面白いから讀んでゐたのである。教養と知性を身につけたいといふ漠然とした目的はあつたかも知れないし、それを讀む事で書きたくなるといふ事はあつたにしても、少なくとも書くための讀書ではなかつた。仕事上の現役を退く時期に當り、讀書の方も「ための讀書」から、純粋に樂しむ讀書に戻りさうな氣がしてゐる。今さら書いたところでどうかするものでもないといふ諦めもあるが、純粋讀書に回帰できるとしたら、それはそれで喜ばしいことではないかと思ふのである。