もうひとつの天皇家

 浅見雅男の『もうひとつの天皇家 伏見宮』読了。『天皇と右翼・左翼』で度々言及のあった伏見宮系皇族について詳しく知りたくなって読んだものである。初期の伏見宮のことは、横井清の『室町時代の一皇族の生涯』を読んでいたので、「看聞日記」著者である貞成親王を中心にわりと親しんでいたのだが、幕末以降のことは何となくしか知らずにいたからである。幕末の政局でよく登場する中川宮のことも、どういう出自かよく確かめもせずに、ただ何とも胡散臭いな宮様だなと思って見過ごしていたのである。それが、この本を読んで不鮮明だった幕末以降の宮家の系図とその動向がきわめて明確になった。隠されていた事実、隠されてはいないが何故か大方の歴史家が触れてこなかった事実についても書かれている点を含め、2012年刊行のこの著作はきわめてすぐれた労作だと思う。

 幕末から明治初期にかけて、僧籍にあった皇族の子弟が続々と還俗して宮家を創出するが、そのほとんどが伏見宮系だった。それは、幕末の仁孝、孝明、明治天皇の頃に成人するまで生き延びた直宮の皇族男子が極端に少なく皇位継承が綱渡りだったことと、逆に伏見宮家の邦家が驚くほど多くの子を成した結果であった。それらが明治になって新たな宮家を創出したのと、閑院宮家のようにもともと伏見宮系ではない宮家も継承する子孫がないことで伏見宮系の養子が入ったために、天皇となった者をのぞけば皇族の男子は伏見宮系の者が圧倒的な多数を占めることになったのである。大正天皇に男性の直宮が四人生まれて多少事態は好転するが、それでも多数派であることに変わりはなかった。それは、戦後に皇籍を離脱した十一の宮家がすべて伏見宮系だったことからも明らかであろう。

 十四世紀末に亡くなった崇光天皇の子栄仁親王に始まる伏見宮家は、その後も直系の血筋を保ったために、明治天皇の時点でも血縁的には天皇家から相当に離れていた。それでも、その後に創設された宮家が断絶するか、直宮からの養子などで辛うじて続いたのに対し、直系で綿々と続くことで宮家としての格式と伝統を獲得してしまったために話がややこしくなるのである。宮家は皇統を維持するための備えの意味合いはあるが、明治以降敗戦までの時期に限って言えば(あるいは今も含めて)、伏見宮系というのは天皇家にとって癌か、それが言いすぎなら必要悪のような存在となってしまうのである。

 とは言え、そこには天皇家では見られない多様な人間模様や生き様があって、興味深いと言えば確かに興味深い。年下の叔母と駆け落ちした晃親王(後の山階宮)であるとか、幕末の朝廷にあって公武合体派として暗躍した中川宮朝彦(後の久邇宮)、さらには戦後すぐに総理大臣となった東久邇宮稔彦など、それらの人たちのある種のデタラメぶりも面白くはある。パリ郊外で自ら運転する自動車で事故死した北白川宮成久も伏見宮系である。それでも、駄場の本にあった伏見宮博恭王の戦争突入への責任の重さは、この本においても改めて確かめられることであった。もちろん、伏見宮系が一枚岩であったわけではないし、一族内部での対立や反目もあったから、駄場の言うような単純明快な構図が成り立つ訳ではないにせよ、本書のタイトルが示すように、「もうひとつの天皇家」として伏見宮系が天皇家にとってのトラブルメーカーとして様々な動きをしてきたのは確かである。その延長線上に竹田某の反動右翼的発言があると思えば、それはほとんど伏見宮系のお家芸とも思えてしまう。

 そうした伏見宮系の人物の中で、わたしが最も興味を覚えるのは朝彦である。特に明治になってから、京都に居続けて新政府にそっぽを向いて拗ね続ける様は、アジア太平洋戦争後の「戦中派」のパトスにも通ずるところがあって、底知れぬ虚無を感じさせてくれる点で興味を引く。一時は政局の中心にいながら、いつしか傍系に追いやられ、その後も敬して遠ざけられたことに業を煮やしてひねくれた生き方の筋を通すところが、わたしにはとても近しいものに感じられてならないのである。