教養主義と歩行法

八月一日(水)晴
昨夜筒井清忠著『近衞文麿』読了。余の抱きゐたりし疑問に答ふる書にて、戦前の文麿の人気から戦後の糾弾に至る背景をほぼ理解す。文麿の依つて立つ新渡戸稲造流の教養主義が、その本質からしマルクス主義国家主義と言つた原理主義に反し、むしろ折衷主義といふ形で現はれること。そしてそれがポピユリズムとの親和性の良さによつて、良いときはマスコミがここぞとばかりに文麿を持ち上げ、逆に批判される際は原理主義を欠くが故に優柔不断と詰られやすいこと。近衞自身もマスコミを自らの人氣の維持に利用し、其の人氣を以て世論を味方につけ、かつリベラルを演じることによつてしか権力基盤を作り得なかつたこと。そして時代がまさに、大衆とマスコミの実力が高まりつつある時であり、近衞の素性や行動、生活スタイルがさうした大衆とマスコミの最大の興味を引いたこと。それらが複雑に絡まり合つて、人気も非難もなされたことが、豊富な史料の裏づけもあつて、実によく理解することができた。大変有意義で興味深い一冊であつた。最近復権の兆しのあるリベラルアーツ教養主義といふものを考へる上でも参考になるし、目下マスコミの寵児たる某市長のポピユリズムを観察する視点を与へて呉れる。やはり現在の我々を取り巻く状況を正しく認識する為にこそ、明治・大正・昭和の歴史と思想をきちんと理解することが大切であることを痛感した。まあ、知れば知る程余の長州嫌ひが強まることも予想されることではあるが。
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このところ毎日、先日の講演で安田登師に教へてもらつた歩き方を実践してゐる。。要するに昔の日本人の歩き方とでも言ふべきもので、極めてゆつくりとしたテムポで筋肉を極力使はずに歩く歩き方である。これだといくら歩いても疲れないし、実際汗をかくこともない。脚や腰、大腿の筋肉を動かすのではなく、体重を前に移動させるイメージで、それに合はせて勝手に足が前に出て行く感じになる。それには背筋を伸ばしたり胸を張つては駄目で、むしろやや前傾になる。ただし胸は下向きにならぬやう、垂直にやや反らせ、首も真直ぐ前を向く。背にリユツクを負ふた格好に近い。この姿勢で一歩踏みだすと、体重の移動につれて反対の足が自然に前に出る。当然歩幅は小さくなるし、地面を蹴り上げて踵を裏返すのではなく、足の裏をほぼ平行に移動させる為摺り足に近くなるので膝も伸び切ることはない。恐らく膝への衝撃も少なくなつてゐるであらう。老人の歩き方に近く、決して格好良くはないが、昔の日本人はかうして歩いていたからこそ一日八時間くらゐ歩いても平氣だつたのだといふ。同じ歩き方で少し速くすると、「スタスタ」といふオノマトペが、成程かういふのを指すのかと理解できる。スタスタ歩かないと、通常の歩き方よりはかなり遅くなる。今は時速六キロが普通だが、この歩き方だと四キロになる。だからこその一里=四キロなのである。駅から会社まで、今までは二十分かからなかつたのに、これで歩くと三十分近くかかる。その代はり体が熱くならずに汗もかかない。外氣が暑ければ汗もかくが、それは暑い中ただ立つてゐても流れる汗と違ひはない。疲れず汗もかかず、しかもゆつくりなので路傍の草花などにも思ひの他目が留まつてじっくり見遣ることができる。昔の旅人の観察眼を追体験できる訳である。ただし、良い事ばかりではなく、筋肉を使はず有酸素運動にすらならないのでダイエツトの効果はないやうだ。それでも、とりあへず暑い間はこの歩き方を続けてみやうと思ふ。寒くなれば、体を温める為に早や足で歩けばいい。不格好で異様に歩速が遅いせゐか、今日は守衛さんに、腰でも悪くしましたかと聞かれる始末。さういふ訳ではありませんが、ゆつくり歩くことにしたのですと、苦笑まじりに答へる他はなかつた。