上野人形町谷中 

十月六日(土)晴後雨
紬の着物を着け家人と二人上野に赴き、東京國立博物舘に往く。まづ本舘一階十八室近代美術の松林桂月「長門峡」に圧倒される。細密でありながら雄渾にして幽邃なること比類なき傑作也。平成舘に移り「尚意競艶―宋時代の書」展を見る。蔡襄並に黄庭堅、朱熹等の書を見る。再び本舘に戻り、二階第八室では池大雅の書畫、浦上玉堂の山水圖を堪能す。又、今回は曽我蕭白の山水圖の端正さに一驚を禁じ得ず。何時もながら東博の所持する名品の幅広さには本當に驚かされる。見厭きぬ思ひはあれど用向きもあれば今日はそれ迄に止め、徒歩上野に戻り地下鐡にて人形町に出づ。遅い晝食を取りたる後呉服屋和装品店を幾つか巡る。中でも目當の錦やに行き、ウエブ上で見い出したる帯の實物を見んとするも店に在庫なく織元より取り寄せになるといふ。見てみないと決めやうがないので同柄で色違ひを三点ほど取り寄せて貰ふことにする。次に來れる來週の土曜は定休日なるも店を開けてくれると云ふ。店員の応對も氣持ちよく又品揃へも良く、安くはないが手頃な値段のもの多く今後も使ひたくなる店である。それにしても人形町は飲食店と和装店が多い。水天宮まで歩き地下鐡にて千駄木に出る。流石に歩き疲れたので不忍通り茶舗にて一憩。店に家人を殘し余は一足先に狸坂に近い古書ほうろうに往く。好みの品揃へにて四冊を購ふ。中に新内の岡本文弥による『谷中寺町・私の四季』なる書あり。勘定の際店員チラシを余に渡す。見れば明日日曜と翌週の日曜に谷中にある新内岡本派の稽古所にて無料の演奏会ありと云ふ。明日は茶の湯の稽古あれば無理なるも、翌週十四日は三時より香道なれば一時からの演奏を聞くを得れば行く事にす。前日國立劇場にて新内の会を聞いて翌日は岡本派を聴く。歡耳の極みと言ふべし。よみせ通り谷中ぎんざを歩み夕やけだんだんに至る。坂上にある悦といふ古着店を覗くに家人は好みの付下げを見つけ出すも裄丈短ければ丈を伸ばせるかどうか和裁店に問ひ合はせ其の結果を連絡して貰ふ事にす。其の間余は男物の角帯を見るうち手頃な値で粋なものを見つけ、セールで三割引とのことなれば購ふ。此の店は前回春に立ち寄りし際にも家人が帯を購ひ、現に此の日締めたるものなれば、趣味と値段が余等に丁度良い品揃へなのであらう。隣の古書信天翁に入り、平山蘆江著『三味線藝談』を購ふ。店内暑ければ外に出で、階段上のベンチに座り待つこと暫しにてT氏現はる。倶に日暮里方面に歩むうちにT氏夫人が驛より着物姿にて來り合流して四人で初音小路にある谷中の雀なる店に入る。T氏馴染の店らしく四人入れば一杯の貸し切りに等しき狭い座敷に上がれば店主愛想良く我らを迎ふ。本來は軍鶏鍋の店なるも、今日は松茸入手したりとて松茸入りの鋤焼を用意してくれる店主心尽しの料理に舌鼓を打つこと數度に及ぶ。酒も旨く歓談十時を過ぐ。途中より雨強く降り始め、店主傘を貸し日暮里驛まで同道、傘を収めて我らを見送る。T氏夫妻と驛中にて袂を別ち歸宅深更に近し。充實の一日と云ふべし。